レビヤタンを巡る信仰

チア・シード

ヨブ3:1-10   


不条理な不幸に立て続けに見舞われたヨブのもとに、三人の友人が訪れます。慰めようと思いましたが、余りの凄惨な様子に言葉もなくし、友人たちは七日にわたりそばで黙りこくって過ごしました。この友情も厚い。この友情は本物です。でもだからこそ、後でヨブに親切心も含めて、非難の言葉を浴びせることになります。人間の心は複雑です。
 
ヨブがついに沈黙を破ります。私は生まれないほうがよかった。現代ではこれが「反出生主義」という名で大きく取り上げられるようになった問題ですが、すでにヨブの口から飛び出していたということになります。生まれた日を呪うという形でこぼれたこの一種の愚痴は、単なる愚痴ではありません。哲学的な問いを含むものです。
 
人間は何故生まれ、苦しみを経験しなければならないのでしょうか。その日は消え失せよ、とヨブは叫びます。なかったことにしてほしい。あらゆる神の計らいを否定しかねない暴言です。しかし後で神がこの暴言自体を非難したり咎めたりした様子はありません。もっと違った角度から、この言葉にアプローチしてみようと思います。
 
現代人にも通じるような表現がここに並びますが、その中に、「レビヤタンを呼び起こすことのできる者」が、ヨブの生まれた日を呪ってくれとの言い方があります。さすがに今私たちはこんな言い方はしませんが、すべてを創造した方にも、どうか呪ってくれと言いたくなる心理については、分からないではないような気がします。
 
ただ、この言葉を神は正しく聞いていたはずです。ヨブ記の終わりで神は、被造物のあれこれを並べまくり、ヨブを圧倒するところで、レビヤタンを登場させます。ホッブズが、リヴァイアサンと英語読みした書で、巨大な政治権力をもつ国家をそう呼んだように、鰐だか竜だかを、地上の生物の中で最も獰猛な代表としてヨブに思い知らせました。
 
それは神の自慢の生き物であるかのようですが、こうしてヨブ記の初めと終わりに揃って顔を出しています。レビヤタンを呼び起こすのは神しかいません。ヨブは、神とレビヤタンのつながりを実は知っていたのです。現にあるものを、なかったものにしてほしい。人にできぬことを神に託します。これも神に対するひとつの信仰ではないでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります