絶望の中から神を呼ぶ

チア・シード

ヨブ3:1-16   


人の子を裏切る者は、生まれなかったほうが、その者にとってよかったものを。マルコによる福音書の中でイエスが呟く。それでもなお、人の子は定められた通りに去ってゆくとし、ユダが重要な役割を果たしたことにすらしません。ヨブの許を訪れた三人の友は、一週間にわたり坐りこみ、無言でヨブと共にいました。私たちは、これほどの友情を持ち合わせているでしょうか。
 
この後議論が飛び交うことになりますが、この友としてありえないほどの生活には、もっと注目してよいのではないでしょうか。激しい苦痛と痒みの中で、しかも妻にも見限られたヨブが、初めて口を開いたシーンです。俺は生まれて来なかったほうがよかった、と。自分の生まれた日を呪うことほど悲しいものはありません。それほどに追い詰められていたのでした。
 
ここに出てくる一つひとつの表現を味わう暇はありません。悲しい、そして切ない言葉が続くのを見送るばかりです。生まれた日は闇となれ。無かったことにしてほしい。子が生まれておめでとうなどということは思いもよりません。心の貧しい状態を攻めることなど誰もできません。
 
呪いは神がなすようと言っているのも、実は自分の手による力ではないことを告白している点で、理にかなったことではあるでしょう。神の手の内にすべてはあります。そしてこのことは、なにげないようでありながら、大変な信の基本に気づかせてくれます。存在するようにもたらされたことを不幸とするのは、神に対する不信を表すのです。
 
私は生まれもせず、眠ったままであったらよかった、そのように嘆くヨブを、私たちは責めることができるでしょうか。にも拘わらず、生を享けたところへ光が射しはしなかったものか、悔しく思います。自分なら光があってほしいのですが、ヨブのように追い詰められたら、果たしてどうなるものか、自信はありません。ヨブは、やはり並大抵の精神の持ち主ではないと思うのです。
 
しかしまた、なぜ私は光の中に生まれたのか、私は神に問うこともできます。自分の力によるのでなく、神の力に基づく私の存在。ヨブだって、間違いなく神の方を向いています。神を見上げています。友情を身に感じてはいても、神と向き合っています。暗雲の向こうには、必ず光があると信じて、天を見上げているに違いないのです。


Takapan
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