どこにいるのか、知っているのか

チア・シード

ヨブ38:3-7   


主が、ついにヨブの前に声として姿を現します。勇者として答えよ、と迫ります。ここから長い問いかけが始まります。かつて地の基が据えられたとき、つまり創造の世の時点にまで戻って、問うのです。ヨブの知るはずもない土俵を場に選ぶというのは、もう勝負は見えていることになるはずですが、主は容赦しません。
 
創世の時、主はアダムに呼びかけました。あなたはどこにいたのか。主はいまヨブに対して、かつてアダムがいた頃にあなたはどこにいたのか、と問います。かつてのアダムへの問いは、人が主に向き主の前に出るきっかけとなった問いかけでした。アダムはそう問われて、答えてみよと迫られはしませんでした。
 
主はアダムを探していたはずです。それとも分かっていて呼びかけた、と見なすほうが神らしいでしょうか。いま、主は嵐の中からヨブに問います。あなたは創造の原理について知っているとでもいうのか。どだい無理な問いであり、ナンクセをつけらているようにも見えます。ヨブはもちろん、何も言い返すことができません。
 
この圧倒的な力をねちねちと見せつけるかのような主の方法は、紳士的だとは言えません。また、そもそもいきなり「どこにいたのか、知っているのか」というパンチを飛ばしてきたことそのものについては、なんら答えを返すこともできそうにありません。これでもう立ち上がれないほどに、ヨブは打ちのめされました。
 
でもこれは、人間にとっては決定的な、必要な問いかけなのでした。自分の立ち位置をまるで考えない人間の姿は、街のそこかしこに見られますし、SNSなどのネット空間では探す必要もないほどに溢れています。自分がどこにいるのか。これは思想的にも、近代がすっかり忘れていた問題意識であり、いまの環境問題や社会問題の根本にもあります。
 
それからもうひとつ。このとき三人の友人は、どこにいたのでしょうか。後に代表して、エリファズが名指しで主の怒りを買っていますが、三人ともこのヨブへの神の責めを聞いていたはず、分かっていたはずです。ああヨブがやられているぞ、とだけ思って傍観していたのでしょうか。ヨブだけが叱責を受けていると観客の眼差しでいたのでしょうか。
 
否、己れに襲いかかる地響きのように、恐れながら聞いていたのではないかと想像します。エリフだけは謎であり、まるで天使であったかのように、ここでも姿を隠しています。エリフは別として、私たちキリスト者は、この世界において、ヨブでないとするならば、これら三人の友人たちのような立場にいることが多いかもしれないような気がします。


Takapan
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