大人げない神の責め

チア・シード

ヨブ38:1-7   


嵐の中から主がヨブに答える。三人の友人が、ヨブの訴えを止めることができなかったために、突然エリフという若者が登場しました。エリフはただ語り続け、ヨブを止めたのに、神からはエリフに何の音沙汰もありません。完全無視です。エリフは謎です。後の挿入かもしれず、物語の展開上なぜ必要であったのか、いまひとつ理解しかねます。
 
しかし今はそれに拘泥しません。エリフが神の驚くべき大いなる業に対する人間の知の小ささと理解の足りなさを言い尽くしたとき、主がヨブについに口を出すことになるのです。この嵐は風を強くしたものですが、風という語は主の霊や息でもありますから、主の霊が激しく及び、ヨブを破壊しかねないほどに爆発的に迫ってくるのでした。
 
ヨブはここまで、友人たちを相手に語ってきました。あるいは妻を前に一人苦しんでいました。いったいあれほどの苦難に遭いながら、その中でよくぞここまで吠えてきたものです。しかしヨブがどうであれ、人に告げてきたのであって、神に向かって告げたり訴えたりしたわけではありませんでした。ひとりいじけるようにしてはいたかもしれませんが。
 
主もまた、サタンと密談はしていましたが、直接ヨブに声をかけるようなことはしませんでした。主からすれば、最初サタンにヨブのことを出来のいい人間として自慢していたふしがありますから、ヨブのことが可愛かったのかもしれません。その主がいまや、ヨブへ、果てしなく責める言葉をぶつけてきます。立て続けに、執拗に、ヨブに問いかけます。
 
必ずしもヨブが神に向けて投げかけたような問いに対する答えとなっているわけではありません。それどころか、些か大人げないようにさえ見えて仕方がありません。勇者として主がヨブを認めているような言い方をしていますが、今主の前で勇者として立ち上がれとヨブを挑発しているようにも見えます。
 
これこれをしたのは誰か、と問いつつ、あなたに尋ねる、とヨブに向き合う主。これは怖い。天地創造の時のことを持ち出す主もまた大人げない。ヨブにそれが抵抗できるはずのない問いだからです。その時点で存在しないヨブに向かって、創造したのは誰かなどと問いかけても、ヨブは一歩も動けないのです。
 
土台無理な注文をする主。地の基も、空の星も、呼ぶの手の届かないところのものでしかありません。しかし、「誰が隅の親石を置いたのか」という主の問いかけに対しては、いまの私たちであれば、それはイエス・キリストを据えた神のことだと答え、その神を崇めたいものです。イエスを読み解く鍵は、聖書の随所に仕掛けられているように思います


Takapan
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