大自然の力を前にして

チア・シード

ヨブ37:6-13   


謎の若者エリフにより、ヨブに向けられた最後に近い部分です。ヨブに対して、3人の親友が見舞いに来たものの、一週間の沈黙の後に交わされた対話は、激しい非難の応酬となりました。3人は意見しましたが、ヨブの心を捕らえることはできず、最後まで平行線に終わります。そこに突如現れたエリフは、神に代ってヨブに打撃を与えたのです。
 
とはいえ、神ほどの力があるわけではありません。それでも、神の告げる方向性は保っていると言えそうです。神がこの自然の凡ゆる現象を司り、大いなる力を以てこの世界を支配していることへ、ヨブの目を向けさせます。否、これは読者へのメッセージです。ヨブが一人不幸に陥り、私たちがそれを傍から見ているような構図で見るべきではありません。
 
ヨブをいつしか気の毒な目で、見物していませんか。しかしこれは、断じて他人事ではないのです。必ず身につまされる出来事なのです。大自然の出来事は、支配者たる神の命令のままに起こる現象です。一つひとつが恰も神の命を受ける僕であるかのように、己が分を果たすのです。自然を崇拝してはいけませんが、そこに神を見ることは必要です。
 
その目的は様々です。ある場合は懲らしめのためであり、ある場合は慈しみのためであることもあれば、他の目的のためであることもきっとあるでしょう。人が、人の知恵でそれを測ることはできやしません。エリフは続いて「立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい」と告げています。人は神を畏れるべきだと言うのです。
 
もはや、エリフの正体を見極めようなどという気を起こす必要はないでしょう。これは人と人との対話ではありえないことです。私たちは、いま一人ひとり神の前にいるのです。あるいは、時に、人間一般というアバターの中に隠れても構いませんが、そこにちゃっかり身を潜めたとしても、やはり神の前にいるのです。
 
大自然の現象の一つひとつが私たちより大いなる力としてそこにあり、日々私たちの居住する空間で暴れます。どんなに歓迎しないと言っても、災害という形で及ぶこともあります。人間の自己中心的な、自分本位な理屈が、これらの力を前にしてどれほどの力を発揮することができるのか、改めて考えてみたいものです。


Takapan
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