近代科学に思いを馳せる

チア・シード

ヨブ37:1-13   


謎の若者エリフの演説あるいは説教の、最後近くを読みます。神の大いなる声が響きわたるとき、あらゆる自然物が揺れ動き、あらゆる現象が起こる。逆に言うと、自然の大いなる現象は、すべて神のなす業である、ということです。人はこの秘密を知り尽くすことなく、ヨブもこの神の前に畏れ、知恵無き己れを覚り黙していよ、と言いたいのでしょうか。
 
かくして主が登場し、ヨブに向かってこの路線で言葉をぶつけていくことになるわけです。エリフは見事にその先駆をなしたことになります。全く以て謎の若者です。その一つひとつの表現を解説しようにも、文化的な背景や理解が分からないし、科学的見解も私たちと違い過ぎるので、あまり意味がないということにしておきましょう。
 
私たちが共感できる、あるいはここから学ぶべき視点というものは何でしょうか。自然法則を見出そうとした西欧の近代科学の初期の人々は、神が計画し創造したこの世界には、美しい神の意志が隠されているに違いないから、それを知りたいと純粋に考えていました。自然は神の考えの実現した形態であると確信していたのです。
 
自然は美しい法則により支配されていることだろう。かつて古代ギリシアでも鋭い観察から、世界の原理を説明しようとする努力が起こり、哲学を生んだと考えられます。それは同時に今でいう科学の考えでもあり、科学の語源は本来の「知」そのもののことでした。しかし地球が宇宙の中心と思い込むと、天体の運動は複雑怪奇な形でしか捉えられませんでした。
 
いや、シンプルな法則でスッキリと説明ができるはずだ。そこから地動説による説明が始まり、当初はそれが信仰に反することだと見なされ、ずいぶんな扱いを受けました。神という視点をもちながらも、人間は複雑にものを考えてしまう生き物です。そのことは、コヘレトがまさに見抜いていた通りでした。
 
でも信仰の目から見ても、世界の美しい法則を説明することにより、神の創造の業を称えることができるに違いない。科学者たちは信仰の心をもちつつも、新たな説明を可能にしていきました。しかしまた、運動の原理は神を機械仕掛けの神にし、あるいは神を不在のままで世界を成立させる理論を可能にするようにもなりました。
 
そもそも「自然」という概念すら、かつて人間はもたなかったのです。人間という主体を意識したときに、自然は対象化したもの、対峙する相手として立ちはだかるようになり、その自然を操作したり支配したりする知恵を展開させて、いまのような科学の理解となりました。それは技術を伴い、ますます人間の思いのままに支配する対象となっていったのでした。
 
主はこの後、嵐の中からヨブに呼びかけます。いえ、迫ります。嵐は主が創造したものだと言うならば、主は自然の中に姿を示すということになります。自然と人間は対立するというよりも、万人祭司のように、あらゆる被造物が神との関係の中にあるわけで、ひとり威張ったつもりになった人間の愚かさを己れの中に噛みしめたいところです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります