背後にある人生観

チア・シード

ヨブ2:7-10   


財と子を奪われても、ヨブはなお主の前で正しかった。記者はそのように評します。サタンはヨブが偉いのではないと主に迫ります。しょせん他人が死んだだけのことで、本人の痛みそのものは何もないじゃないですか。ヨブ自身が痛み苦しむことなしに、ヨブが耐えているなどと言っても、利己主義の人間なら大いにありうることでしょう。
 
サタンが指摘したことを、主は気づいていなかったのでしょうか。面白い描写です。それにしても人間は、自分自身が痛くなければ、耐えられないことはないのだ、という指摘は、実に厳しいところを突いてきたと見ることもできます。我が子の命ですら、ヨブにとっては他人事と見なす余地があるというのです。
 
そんなはずはない、と弁護したい気がしますが、では本当に否定できますか、と問われると、沈黙を強いられそうです。エゴについて、身体論、自己愛、様々な点からこの観点は重くのしかかってきます。かくしてヨブは全身の腫れ物に襲われ、痛みよりも我慢できまいとする痒みに見舞われます。サタンはただの痛みよりも辛くいたぶってきたのです。
 
人間が耐えられないものは、いったい何なのだろう、と考えさせられます。マカバイ二7章で惨殺された息子と母親も耐えたのです。ヨブは妻は奪われませんでしたが、妻からは、神を呪って死ねと言われました。これを日本人的に、夫が苦しむのを見ていられないために、いっそ死んだほうが苦しまないのでは、と情感的に理解するわけにはゆきません。
 
そこには神の呪いという、究極的な不幸が口にされているからです。ヨブは、それを愚かだと言い捨てました。悪魔を追い払うかのようでした。苦しみから逃れることを求めているのではないのです。神を中心に置いて人生を捉えることが頭から離れません。そのときにこそ、苦しさ辛さを超えていくことが可能になるのだと考えているように思えます。
 
神から幸いを受けたのだから、災いをもまた受けようではないか。多くのキリスト者が、このヨブの言葉に慰められると言います。本当でしょうか。もしそこに、私が世界の中心にいる構図があるとしたら、大きく的を外しています。徹底した神中心の世界観がそこにあることに気づく必要があります。私が耐えるのではなく、神の問題であるのです。


Takapan
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