ヨブは立ち上がった

チア・シード

ヨブ1:18-22   


財産が次々と失われていった、との知らせがヨブの許に届きました。さらに不幸が舞い込みます。子どもたちが一同に集って宴を開いていたところ、大風という自然災害で全員死亡したと知らされたのです。それぞれのニュースは、唯一人現場から助かったという生存者により走り伝えられました。ヨブの日常が突如破られた一日でした。
 
これを聞いたヨブは、立ち上がったと記されています。その後すぐに「衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏し」た、とはいいますが、まず「立ち上が」ったというのです。これには驚きました。というのは、復活について聖書が述べるときに、「起き上がる」という語を使い、「立ち上がる」もそれに近く、またそれは行動を起こす言葉だからです。
 
もちろんヨブがそうだったのだ、と断ずるつもりはありません。その場に倒れたり、うずくまったりしたのではなく、驚き呆然として立ち上がったというのかもしれないにしても、ともかくヨブは立ち上がったのです。これを、何らかの新しいスタートの暗示だと見てはいけないでしょうか。ヨブの新たな人生が、ここから始まるのではないか、と。
 
悔改めのサインのように、上着を裂きます。激情の表現だとされています。髪を剃り、それからひれ伏してやっと、うずくまるような姿勢をとります。それから、人口に膾炙したあの言葉を漏らします。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」裸で生まれたなら、裸で土に帰るだけだ、と。
 
主が私の命を与えたのなら、財も希望もすべて奪うのもまた主であるはずなのだ。主はまさに主人なのだ。自分には何の言い分もないし、まして不平を言うことも逆らうこともできるはずがないではないか。ヨブのこの言葉、やはりヨブがただ者ではないことを示します。サタンの策略をヨブは知らないのですが、主を見上げるばかりの告白です。
 
私たちは時折、ヨブはいろいろあったから神に不平を言ったのではないかとか、その信仰は不十分だとか批評します。なんだか人の不幸を、高みの見物でからかっているかのようです。とんでもないことだと思います。少しでも我が身において考えてみただけでも、このヨブの立ち上がり方のもの凄さというものを感じるはずではないでしょうか。
 
ヨブは神を見上げ続けました。これを記者は「罪を犯さなかった」と表現しています。罪とは的外れ、あるいは神を神としないこと、神から逸れていくことだとすれば、ヨブは神の方をずっと向いていたのです。神を悪くいう唇をもたず、神という方をひたすら信頼して、そして自分の新しい日常の中を歩むために、立ち上がったのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります