贖う方を見上げる

チア・シード

ヨブ19:25-27   


邦訳聖書をいくつか並べて詩編を開くと、これは同じ詩だろうかと思うほどに訳が違うことがあります。旧約聖書の物語的な部分はそうでもないのですが、詩的な表現は訳し方が様々になりうるのです。ヨブ記もその意味では同じで、原文が同一であるとは信じられないような箇所が多々あります。
 
ヨブ記の中でも、キリスト教サイドから注目されやすいこの箇所も、訳がいろいろありました。フランシスコ会訳は、ユニークな訳を採用することが多いのですが、それに解説をつけていて、勉強になります。従来の訳とは異なる路線で訳した理由を述べるだけでなく、もうこの特殊な訳こそが真実だと主張することもあって、ちょっと楽しく読めたりもします。
 
私を贖う方。ここには、旧約イスラエルの大切な文化的背景があるはずです。ヨブがどれほど大きな意味を含めてここで発言しているかは分かりませんが、キリストへのつながりにとって重要であることは間違いありません。ルツを買い戻すボアズの記事を思い出すと適切と言えるでしょうか。
 
ヨブにとり、この悲惨な情況から神が元に戻してくれるという思い、あるいは信頼が、なんとか生きる頼りであったと思われます。「後の日」というところを、フランシスコ会訳は「最後の方」と神のことにして読んでいました。これが贖う方のことである、と解説も詳しく書かれていました。
 
しかしヨブは、いつかきっと、という思いで見上げているのかもしれません。私自身が神を見るのだというところも、フランシスコ会訳は、神を味方として見る、という意味に決めてしまっていました。元の語は、自分自身であることを踏まえつつ、全く限定した他の訳語にしてしまうことは、カトリックの訳で時々見受けられるような気がします。
 
聖書協会共同訳のはらわたとは腎臓のことだと新改訳は注釈していますが、新共同訳は腹の底ともしています。どうにも苦しくつぶされ絶え入るほどに辛い思いが伝わってきます。この嘆きあってこその信仰なのだとも言えますが、苦しいイメージを宣伝する必要はなくとも、苦しさを押し隠していることもまた不適切でしょう。苦しい人が救いを求めるのです。
 
胸が締めつけられて、自分の肉も心も苦悩の内に消えてしまおうとするほどの中で、神が買い戻して建て直してくださることを待つ姿ですが、私たちはこの「待つ」ことがなかなかできなくなっています。私たちはスピード化された時代の中で、恐ろしく短気になっていないかどうか、省みる必要があると思います。


Takapan
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