この災難は罪の故であるという思考枠

チア・シード

ヨブ10:1-22   


自分には非がない。罪とは関係がない。そう主張するヨブだとして、ビルダドが批判を始めました。人には罪がある。その点ではその言い分は正しいでしょう。けれども、罪があるから不幸が舞い込む、という点ではどうでしょうか。ヨブとて、この不幸が不条理だという点では尤もなことですありますが、身の潔白の問題はまた少し違うような気がします。
 
ヨブも、神に対して人が正しい、と主張することはできないのだ、ということは分かっています。そしてこのたび神は、「理由もなく私に多くの傷を与える」(9:17)ことをしたのだ、と訴えます。「たとえ私が完全でも/神は私を曲がった者とする」(9:20)との思いは消えません。ヨブはこうしたところから、もう生きているのが嫌になりました。
 
主がヨブの罪を調べていると感じており、「あなたはご存じです/私が悪しき者ではないことを」と、やはりヨブの立場は変わっていません。このような形で神に睨まれてしまったら、もうそこから救い出し得る者は誰もいないではありませんか。救いは、主にあるのです。確かに主から攻撃されたなら、躱す術はありません。
 
ヨブは、自身が神により創造された者であることを十分理解しています。しかしどうしてもヨブには、この不幸に相当する自分の非が思い当たらないのです。「私は正しくても/頭を上げることができません」と、追い詰められている心情を吐露します。なぜ自分は生まれたのか。生まれなかった方がましだった。ヨブは死の陰の暗闇の中にいます。
 
それでも神に訴え、叫びます。神に向き合っているのです。気の毒でなりません。私なら堪えられません。しかし、「このヨブもまた友人たちと同じように、罪や悪が人にあるが故に神が災難をもたらす、という原理の上に立って世界を見ているのです。当事者と傍観者との違いはありますが、この思考枠から逃れられないでいるのです。


Takapan
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