自由とは何か

チア・シード

ヨハネ8:31-38   


自由の概念ほど、常に注目され、なおかつその都度定義され直すものもないかもしれません。定義は時代により個人により一つひとつ異なります。同じ言葉をとっておきながら、天と地ほどの差があることさえ珍しくありません。それを言う者の立場により方向性が変わるのであり、そこにこめられた思いが変貌してしまうのです。
 
奴隷になったことなどない、とユダヤ人はイエスに答えました。イエスが、真理はあなたがたを自由にする、と告げたからです。アブラハムの子孫としての矜持がユダヤ人にはあったし、奴隷という概念が自由の対極にあると考えていたので、ローマ人が政治的に手綱を引いている現状においても、このような理解を崩さなかったと思われます。
 
そこへイエスは、人は奴隷になっているではないか、と指摘したのです。罪の奴隷なのです。その点で、イエスに対立するユダヤ人たちが、自由になっているとは言えないことを突きつけるのです。本人たちは、自分が自由だと信じて止みません。でもその枠内でしか考えられない状態ですから、自身の不自由さが全く認識できないのです。
 
プラトンの洞窟の比喩もそうでした。俺は正しい、そのように思い込んでいる者ほど哀れな者はありません。自分の非に気づくことすらないからです。父とくれば自分の父親、人間の姿しか頭に浮かばないのは仕方がないにしても、イエスは、天へ突き抜けたその父とつながっています。これに気づくには、人間を超えた世界に目を向ける必要があります。
 
それを可能にするのが、唯一イエスでした。イエスを通して私たちは初めて、この世界を知ります。イエスの奴隷となることによってそれができます。これはパラドックスです。さらに、それはイエスの方から私たちの友となってくださるからだ、と気づくと、よけいに神の業の素晴らしさというものに感動することになるでしょうか。
 
必要なことは、イエスの言葉に留まることです。イエスは自分を道であり真理であり命である、とも言いました。真理なるイエスとの交わりを与えられることが必要です。この真理が自由をもたらします。その自由とは何でしょうか。イエスの許では、奴隷と自由とが止揚されて一体となっていることに気づき、生きること、これではないでしょうか。


Takapan
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