究極の問いと光なる神

チア・シード

ヨハネ8:12-20   


人はどこから来て、どこへ行くのか。人間の永遠の問いであると言われるものです。哲学の根本問題だとも見られ、私たちが問うことは、畢竟ここへと行き着くのだと了解されています。私はいったい、どこから来たのでしょう。今ここにいるとしても、ここからどこへ行くのでしょう。それは、誰も知ることのできない問題だというのです。
 
知ったつもりになっても、決して確実な知にはならないからです。イエスは、人々がイエスのことを知らない、分かっていない、と言っています。人間にとり、イエスは決定的に重大な存在であるはずなのに、その出自も約束も分かりはしない、とぶつけたのです。もちろん、この時点でその場の人がイエスをそう認識していたのではないでしょうが。
 
イエスが、自分は世の光であり命の光である、と先に宣言しました。ところが、ファリサイ派の人々が、自己証言の確かさの問題を投げかけたことで、この後話がずらされてしまい、ついにそのまま、この光の問題はどこかへ消えてしまいました。イエスは、この光について何を言おうとしたのでしょうか。そのことについて、少し考えてみます。
 
神について、それは光であるというようなイメージがよく挙げられます。聖書は神に関して、いろいろに光を登場させています。光と闇との二元論は問題を含みますが、やはり神は光です。それは私たちのイメージする光である必要はなく、人間の言葉ではどうにも表現できないので、もはや「光」としか言えない何ものかである、ということです。
 
奇しくも科学的見地からも、光は特異な現象だと分かってきました。光は粒子であると共に、波でもあるなどと考えられ、例外的に相対的速度をもつことのない、絶対的な速さの基準であるともいいます。光が神だというのはある意味で確かなのかもしれません。光なるイエスは、父と共にいる故に、イエスは神であるといっても、矛盾にはならない、と。
 
人間の普通思いつく論理で解消できるものでもなく、人間の論理で否定されてよいものでもない、理解され尽くせない何ものかなのです。それからもうひとつ、この場面で「証し」というテーマを見てみます。二人の証人の必要性から、子と父との二人の証言なのだという理屈は、人間には簡単に納得できないもののように思えます。
 
あまつさえ、それらが実はひとつであるとすること自体も訳が分からず、二人の証人という問題を蔑ろにしかねなくなります。でも先の光の説明からすると、二人でありつつ一つであるとしても、基本的に問題がなくなります。電子だって、同時に二箇所に存在するように振舞うというではありませんか。人の知識など、限られたものに過ぎません。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります