穿った見方で知る渇きと水

チア・シード

ヨハネ7:37-39   


渇いている人は誰でも私のもとに来て飲みなさい。つまり、まず渇いていることが必要になります。あなたは渇いているでしょうか。実際に渇いているでしょうか。渇いているふりをしているだけ、ということはないでしょうか。まず事実その人は渇いている状態にあるということが前提となって、その人だけがイエスのもとに来ることができます。
 
もうひとつ、注目します。あなたは自分が渇いているということを意識しているでしょうか。渇いている自分というものを自覚しているかどうか、これも大切です。その意識なく、瀕死の状態であることに気づいていなかったとしたら、たいへん危険です。イエスが呼びかけたのは、事実渇いていて、その渇いている自分に気づいている人なのです。
 
イエスはこれを、立った状態で言いました。聖書で、立ち上がるというのは、すぐにでも動けるようになり、行動を起こすということを意味します。いますぐにでも行動できるのです。助けに行けるのです。だからまた、私も直ちにイエスの許に行かなければなりません。呼ばれたら、私の方でも、イエスを求めて駆けてゆく必要があったのです。
 
イエスの声は大きかったと記されています。そんなもの聞こえませんでした、などという言い訳は通用しなくなりました。誰にでも必ず聞こえるはずだったのです。しかもこれは、祭りの盛大に中です。人々が集まる祭りのクラスマックスですから、万人にイエスの言葉が響き渡ることになっていたはずでした。
 
福音は、すべての人に行き渡らなくてはなりません。でも、聞こえただけで万事がうまくいくわけではありません。イエスを信じる者が、次のステップへ進むことができる根拠を知るべきです。根拠は旧約聖書にあります。それは、マタイ伝のように、引用と確実に分かるように引用するのではありません。
 
エゼキエルやゼカリヤが、こっそりと命の水について触れています。命の水は、さりげなく隠されていました。神から流れ出るのかと思いきや、その人の腹からであるといいます。与えられた神の命が私へ流れ込んでくるのかと思っていました。でもそうでなく、私から流れ出るというのです。ヨハネはこれを「霊」だと説明しています。
 
まだこの時点で、イエスには与えられていないタイプの「霊」でした。しかし、この福音書を読んでいる人々の時代、ひいては私たちの現在では、イエスはすでに栄光を受けています。つまり十字架刑を受け、死んでよみがえっています。今のこの私たちの時代には、この「霊」の出来事は、すでに起こっていることになります。水が流れ出てよいのです。


Takapan
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