悪霊に取り憑かれているのは

チア・シード

ヨハネ7:14-24   


人々の、イエスに対する疑問は尤もです。立派な学びをしているわけではないのに、聖書をよく知っている。聖書は、学問を修めることによってのみ分かる、とでも言いたいかのようです。神学校もまた、多分に漏れず、卒業は難しくありません。そして、卒業さえすれば箔が付きます。人々はすっかり、その資格とやらに騙されてしまいます。
 
イエスは、ユダヤ人が自分を殺そうと狙っていることを察知していました。イエスが悪霊に取り憑かれている、とかの人々が評していたからです。理解できないことを口にする人物は、自分たちの常識に浸りきっている人々から見れば、どうかしているのです。そして、安息日に割礼を施すのが当たり前と思う自分たちのことを、顧みることはしません。
 
それで、安息日に人の病を癒したイエスに腹を立て、命を狙うことまでします。人々は、それで自分たちが正しい裁きをしていると思い込みます。イエスはそれを見破り、指摘します。そんなことをするから、イエスは益々まずい立場へ自らを追い込んでいくことにもなります。但しそれは、ヨハネ特有の演出であるかもしれません。
 
さて、イエスの活動と思想の、本質の部分であろうところを見つめていくことにしましょう。イエスが決して自分勝手に話しているのではないということは、明らかです。それは父から出たことです。そしてその言葉は、父の真実を証しするものであり、父なる神の栄光を求めることになります。まるでヨハネ教団の弁明をしているかのようでもありますが。
 
自分たちは安息日に仕事をしながら、神のためだと言えば問題なしとし、イエスが安息日に癒しを施したら、それは悪霊の業だと非難する。否、とんでもない、悪霊に取り憑かれているのは、むしろ人間たちの方なのだ、ということに方向付けられることになるでしょう。だがそれは、ここに登場するユダヤ人たちだけの問題なのでしょうか。
 
私たちはいつでも、自分をまず正しい方に置くところから、論議を始めないでしょうか。聖書を読めばいつでも、イエスの側にいて、正しい側の、しかも表に出ない背後に立って、その場面を眺めているのではないでしょうか。責任をとるような立場には出ない。だが物語の背後から、自分だけはイエスをよく理解しているなどと錯覚していないでしょうか。
 
むしろ、その群衆の中にいませんか。そこに自分の姿があるという自覚を、ほんの少しでももつことができたなら、事態は変わります。キリスト教はいつしか、正しいのは自分だと自認するための道具となっていきました。私たち人間の性が、そのようにさせるのでした。外から呼びかける神の声に耳を傾け、それに従うことができたなら、どんなに。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります