離れ去る人々と問われる一人と
チア・シード
ヨハネ6:66-69
「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」(6:54)などというイエスの言葉を聞いて、それまでイエスの教えに耳を傾けていた人々は、とても聞いていられない、と呆れました。これが教義となり、それを信じた後の時代の私たちにしてみれば、これこそキリスト教だとよく分かるのですが。
確かに象徴的な表現が使われています。肉や血を、という言葉をまともに文字通りの意味で解したら、まるでカニバリズムです。初期の教会への一般社会からの非難のひとつはそこにあった、と伝えられています。気味の悪い宗教集団です。当時の人々にとっては、深刻な問題です。今の私たちとは全く違う視点を当然もっていたことでしょう。
イエスには、分かっていました。裏切る者がいること。信じない者もいること。このときから、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とヨハネは記します。「弟子たち」とは誰でしょう。イエスが振る舞った食べ物に興味をもち、付き従ってきただけの者も、少なからずその中にいたことだろうと思います。
ヨハネが、このように文句を言った人を示すのに「ユダヤ人」と盛んに呼んでいるのも気になります。この辺りの記事では、ガリラヤ湖でのイエスの活動が記録されています。そこはユダヤとは言えません。もしかすると、ガリラヤ周辺にある人も、イスラエル民族である限り「ユダヤ人」という呼び方でまとめてしまっているのでしょうか。
あるいは、ガリラヤ湖のイエスを慕って、エルサレム近くからわざわざ田舎まで来ていた、ということかもしれません。ならば、彼らはまたユダヤに帰って行ってしまったのです。東北に何かすごい人物がいる、と東京から人が押し寄せるが、わけの分からないことを言い始めたので、がっかりして戻って行った、というイメージが近いでしょうか。
イエスは、地元で呼び集めた十二弟子などの側近の方を向いて問います。「あなたがたも去ろうとするのか」と。淋しさの故なのか、それとも信仰告白をさせるために敢えてもちかけたのか、それはよく分かりません。ただ、この同じ問いは、現代に、そして私に向けて、ぶつけられてきていることを覚えます。おまえはどうなのか。おまえもそうなのか。
ここでイエスに対して、シモン・ペトロが応えています。これはある意味で模範解答かもしれません。この応答に倣ってほしい、とヨハネが願っているのかもしれません。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう」とは、イエスを離れない、ということです。ここに永遠の命がある。あなたを信じている。あなたと出会って、結ばれているのだ、と。
