人の子の肉と血

チア・シード

ヨハネ6:52-69   


命のパンとしての自らをイエスは開示しました。これはユダヤ人へのメッセージでありました。でも到底このようなことが理解されるはずはありません。ユダヤ人たちは議論を始めます。話し合うのです。感情のままになんとなく行動をし始め、群衆が一体化するという成り行きにはなりません。まずは議論する。あれは律法に反するのだ、と議論するのです。
 
もちろん、殺そうとイエスを狙うことはします。でも、互いに意志の同一を図るのです。イエスの挑発はそこでさらに、肉と血を持ち出してきます。血の話はまずいものです。血は命であり、決して飲んではなりません。律法が定めています。その上、血を飲む者を復活させるなどと過激なことをイエスは続けます。あまつさえ父を神と呼ぶ。
 
ここにユダヤ人たちの殺意が描かれていないのが不思議なくらいです。弟子たちがイエスの許を去った、とは書いてあります。「ひどい話だ」と呟きますが、「ひどい」の語は、堅いことを表す語です。「頑な」でもありましょうし、「難い」と日本人なら思うでしょう。時に暴力的で荒く厳しいものにもなるでしょう。近寄れない、関わりたくないと思うものです。
 
イエスはこれに気づきます。上よりの霊の言葉なのだ、命を与えるのだ、と話します。これは私たちへ向けて語られているものに違いありません。あの場面はステージの上の出来事であり、影響は伏せておいて、突如場面は切られたわけです。私たちもかの弟子たちのように、教会を去るのでしょうか。そうした者がいたことは、ヨハネ文書からよく分かります。
 
しかし留まる弟子たちもいます。ここでは十二人が残ります。ユダも残っているため、この直後にユダについて言及されているわけですが、それは注釈としていまは触れないことにします。必要で十分な弟子たちがそこに残るのです。舟を追いかけてきた、ただパンだけを求めていた群衆はいなくなります。荒れ野のパンの配分は命へとつながりませんでした。
 
私たちは、何かしらパンを求めていると言えるでしょう。食べるパンも重要です。イエスのパンは、そして血は、私たちの欲していたものと違っているかもしれませんが、永遠の命へと至るものです。私たちは議論する必要はありません。一人ひとりがイエスの前に出て、あなたならどうするのか、と問われているからです。


Takapan
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