命のパンが人を生かす
チア・シード
ヨハネ6:43-51
五千人にパンを与える奇蹟があった翌日のことです。群衆は、イエスを追って湖の向こう岸まで来ました。パン目当てであると見たイエスは、真の食べ物は信仰によるものであることを説きました。すなわち「天からのパン」であり「神のパン」であることです。その「天から降って来たパン」(6:41)がイエスだということをユダヤ人は聞きました。
「ヨセフの息子」(6:42)ではないか。それがなぜ、天から降って来たなどと言うのか。ユダヤ人たちは不満を口にします。そこでイエスが言った言葉を、いま聴きましょう。イエスを信じ、イエスの許に来る人がいます。父なる神が引き寄せるのです。終わりの日、イエスがその人を復活させるということも、ここで触れられています。
イエスのところへ来るのは、神の教えを聞いて学んだ者です。父なる神を目で見た人間は一人もいませんが、イエスは父を知っています。神のパン、命のパンというのは、このイエス自身のことなのです。このことを信じるかどうか、ヨハネ伝は一途に問い続けています。あなたは信じるか。ここにもヨハネ伝の特徴を見ることができます。
マルコ伝は、イエスと出会い、旅を再び共にすることを求めていました。それに対してヨハネ伝は、もう少し距離を置き、見えずとも心に触れること、つまり信じることを求めているように感じられます。イエスは命のパンであることを、あなたは信じるか。イエスを食べる者は死なず、それは出エジプトの民の食べたマナよりも偉大です。
この命は、地上の限られた生にしか役に立たない食糧とは質的に異なります。イエスは自らを「天から降って来た生けるパン」であると宣します。これを食べる者は「永遠に生きる」というのです。御子を信じる者は永遠の命を得る、という、ヨハネ伝の中核に輝くメッセージを反射する言葉が、福音書のそこかしこに鏤められています。
このイエスの肉は、十字架で刺し貫かれました。人となった神の、痛々しい肉でした。それは、「世を生かすために与える」ものだといいます。「命のパン」と呼ぶに相応しいものでした。「世」とは、個々の「人」だと見てよいのだとすると、福音は、正に一人ひとりの「人」を生かすために、こうして告げられるものなのです。