見ているのに信じない

チア・シード

ヨハネ6:36-40   


あなたがたは信じない。イエスを見ているのに信じない。イエスと出会っていないのです。個人的に、人格的に、生き方に影響を及ぼすような体験をしていないということです。信じるという言葉の内に、多くの含みがあるとすべきでしょう。ただ、神を信じるとは、神の存在を信じるということでないことだけは、まず確認しておかなければなりません。
 
イエスは信じる人々を、父が与えてくれる、というような理解を示しています。信じる人を、イエスは決して拒みません。信じるというあり方についても、神がもたらすと考えてよいのでしょうか。そもそもイエスは、この父なる神の心を実現させるためにこの世に来たと思われます。上から、新しくまくこの人間たちのところへ来て、救いの道を拓いたのです。
 
このようにしてイエスの許にもたらされた人々が、滅ぼされるはずがありません。一人として、滅びません。神が人を、世を愛した結果、そのようになりました。そうして終わりの日に、すべて復活するとも言っています。裁きの故に誰もが復活するという見解もありますが、ここでは、復活して永遠の命が与えられるというつながりが特に疑われた様子はありません。
 
イエスが復活させるとも読めるので、私たちは教義的などうなのか戸惑いを覚えるかもしれませんが、私たちの思惑や解釈がどのようなものであっても、イエスの告げたことには揺らぎがあるとは思えません。強いていえば、福音書を書いた記者の解釈が異なったのでしょう。ヨハネのグループがイエスにどう言わせたか、ということが問題でもあるわけです。
 
福音書は多角的に捉えなければなりません。見なくてはならないのは、やはりイエスとの出会いであり、信じるという点でありましょう。見ているのに信じない。こういうこどか実のところ余りに多いのです。イエスについての知識や聖書の研究を如何に自分の中に貯えていても、だからと言ってイエスと出会い信じているとは限らないのですから。


Takapan
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