天からのパンを求めて

チア・シード

ヨハネ6:34-40   


群衆は、パンを求めてイエスを追いました。朽ちる食べ物のためにイエスを執拗に捜したのです。笑うわけにはゆきません。私たちも現代社会で、経済をどれほど重視しているか、振り返る必要があるでしょう。群衆はイエスにしるしを求めます。出エジプトの中の「天からのパン」という出来事に言及します。これに対してイエスは宣言します。
 
自分こそがそのパン、命のパンであるのだ。もう飢えも渇きもないのだ。世に命を与えるとはそういうことだというのです。しかしそのイエスを見ている群衆は信じません。イエスは厳しくされを指摘します。イエスの許に来るかどうかが重要なのです。ヨハネ的に、父から子へという関係が、子から人々へという関係にパラレルに扱われています。
 
ただここでは、父がその子の許へ人を呼び集める、というような書き方がしてあります。そのような人々を子が追い出すようなことはしないと言っています。父の意志を行うのがイエスの使命であるからです。父がその人をイエスに与えたのです。それは一人として失われることがありません。終わりの日に復活させ永遠の命を与えることになります。
 
これに対して群衆は、永遠の命や復活といったところには全く気づいていません。少なくともそのような反応をしています。パンこそがすべてであるかのようです。確かに、パンは重要です。私たちはそれを糧と呼びます。自分の体も、時に心も、形成するためのエネルギー源です。しかし、人はパンだけでその命を十分賄い尽くすことはできないのです。
 
イエスがそのパンであるという宣言について、私たちは適切に受け止めているでしょうか。もしかすると、かの群衆と同じように、自分の利のため、欲求のためにイエスを利用しようとのみしてはいないでしょうか。否、イエスを追って行動した彼らほどの苦労もせず、行動すら起こさずただ座って眺めていて、偉そうな顔をしていないでしょうか。
 
そうして、よいものが与えられないだろうかと願い、あるいは与えられないと不条理だなどと不満ばかりぶちまける、とんでもない日常を過ごしてはいないか、胸に手を当ててよく考えてみましょう。そのパンをいつもください、と願い、なんでくれないのかと文句を言っていないでしょうか。イエスの許に行くとはどういうことか、考えましょう。


Takapan
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