38年間

チア・シード

ヨハネ5:1-9 


ヨハネ伝は、幾人かの人物を大きく取り上げることがあります。ここには、名前は出されませんが一人の個性ある病人の、イエスとの出会いが記されています。イエスはエルサレムに来ました。ただ祭としか書かれていませんから、どの祭であるかは不明ですが、一説にはペンテコステではないか、と想像されているそうです。ともかく、そこはエルサレムです。
 
羊の門は、神殿へ向かう門です。外部との境である城壁にある門ではありません。神殿から見てこの門の外も、なおエルサレム城壁の内部であり、門の北に、ベトザタの池がありました。回廊があり、そこには病気や障碍を負った人々がたくさん集まっていたといいます。ヨハネの最初の記事では説明不足と感じたのか、後にその訳が書き加えられたと考えられています。すなわち、天使が水面を揺らすとき、その水に真っ先に入った者はどんな傷病も癒されるという伝説があり、そのために誰もが待ち受けているのでした。
 
この人は、自分で動けませんでした。癒されたいと思い、水の動くのを待っていましたが、人に動かしてもらわなければならなかったので、自分の意志で入れず、第一に入ることができないでいました。実に哀れです。ひたすら待って、いざそのチャンスがやってきたのに、自分ではどうすることもできないのです。
 
それが38年間も続いていました。38年間です。自分の38年前を想像してみましょう。あの時から、ずっと、期待と絶望のまま何もできないで、だが生きているのです。リアルにこの時の経過を感じてみましょう。チャンスを活かすあてはあったのでしょうか。ないのに希望だけがあったのでしょうか。それでも待ち続けるよりほか、自分には何もできないのです。そんな人生とは、何なのでしょうか。
 
この人は、イエスを待っていたわけではありません。イエスのほうから来たのです。イエスのほうから、声をかけたのです。この人の事情をすべて見抜いたイエスが。「良くなりたいか」とは、ある意味で残酷な問いです。なりたいに決まっているではありませんか。これは、教会の中で読まれるときに、信徒への問いかけとして投げかけられたものであるかもしれません。自分の信仰、自分の意志を確かめるための問いです。
 
私たちは、ともすれば「どうせ」といじけてしまいがちです。この人がそうだとは思いませんが、しかし、肯定的・積極的に良くなりたいと返答した訳でもありませんでした。ただ、自分を助けてくれる人がいないのです、と返答しました。助けてくれる人がいない。この告白は、私たちにできるでしょうか。人は私を助けない。私は人を頼ることを止めた。そう、イエスに向けて答えることができるでしょうか。
 
38年間の中で、癒されることを願い、期待はしても、人に頼らざるをえない自分には、しょせん希望が叶うわけもなく、だからまた、人を信頼することもできないと結論をつけました。しかし死を選ぶこともできないで、ただ生きている。こんな自分は何なのだろう。そんなことを、私たちは感じたことはないでしょうか。感じる人が、隣りにいないでしょうか。
 
聖書の中から、イエスが私に問いかけます。私から求めていかない時にも、イエスのほうから呼びかけます。あなたは良くなりたいのか。そうだと思っていても、強く求めているというわけでもない。ただ、人のせいにしたりもし、人を信頼していないと呟く。この人の心情も不明ですが、私の心はもっと卑屈で、塞いでいるかもしれません。実のところ、自由のない、動けない人生を過ごしていやしませんか。しかし、イエスはそんな私に、死から目覚め起きるべく命じます。歩けるのだと宣言します。イエスを信頼するならば、人にはできないことが我が身に生じるのです。


Takapan
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