第二のしるし

チア・シード

ヨハネ4:46-54   


再びガリラヤのカナを訪れます。この間、エルサレムで過越祭を迎え、ニコデモとの出会いやサマリアの女との対話を経ています。ガリラヤの庶民のところにまず出かけたマルコの福音書とはひと味違うようです。これも時間の逆転で説明ができます。中央のほうに、より核心に迫るユダヤ人への宣教が集まっていくことになります。
 
故郷では預言者は敬われない、という諦めのような言葉すら発して、ガリラヤへ戻るイエスでしたが、見る限りまずは歓迎されています。カファルナウムにいた王の役人が、その息子の病気のために案じていたところ、イエスの噂を聞いてカナにいるイエスの許を訪ねてきました。この辺り日本語訳聖書で経緯がやや分かりにくいようにも見えます。
 
よく言えばしるしを、わるく言えば不思議な業を見ないことには、人々は信じようとはしないものだ、とイエスは面と向かい、突き放すようにその役人に告げました。おそらく一日がかりでイエスを訪ねてきたはずですが、そこへ冷水を浴びせたかのようです。役人は王のもとで一定の地位にあったはずで、イエスの言動に怒りを発することも可能でした。
 
でもそうはしませんでした。死にそうな息子を前にして、プライドも何もありません。救ってほしいの一心ですがるような思いだったと共に、イエスの前にへりくだったのも確かでしょう。子どもが死なないうちに来てください。イエスが来なければ子は生きられない、と親の切実な願いが、もはや頼れるものはイエスしかないという思いを伝えます。
 
イエスは少しの間黙ってこの父親の顔を見つめていたのではないでしょうか。それからぽつりと告げます。「帰れ」と。ショックな言い出しですが、息子は生きているのだ、とも付け加えます。父親は、イエスが共に来ることを願っていました。息子に手を置いて癒す治療行為の業を想像していました。「下って来て」と言ったのですから。それを「帰れ」です。
 
信じられますか。でもこの父親は、信頼したのです。イエスの言葉を懐き、言われる通りに帰ったのです。するとカファルナウムに着く前に、報告する僕たちと出会います。息子は回復しました、と。その時刻はイエスの言葉を昨日聞いた昼の時と一致しました。前日にイエスに出会い夜はそこで過ごし、翌日に帰宅したと思われます。
 
これがガリラヤでの第二のしるしでした。ヨハネはそう記します。カナの婚礼でのしるしから遡るこのしるし、イエスの復活を想起させます。死と復活を遂げるイエスの受ける栄光を、イエスの宣教の初めに、対応すべく予感させるものとなりました。そしてここには、第一のしるしにはなかった、強い信頼・信仰がありました。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります