真理

チア・シード

ヨハネ4:19-24   


サマリアの町シカルにあったヤコブの井戸、ここへイエスは来ました。サマリアを通らねばならなかった、という表現が、嫌々ながらというニュアンスを与えますが、そもそもどうであったかは知りません。読者それぞれが感じとればよいでしょう。ヨハネの筆は、そこは遊ばせておきながら、やけに詳しい土地事情を説明します。他の福音書の手薄いところです。
 
昼の最中に水を汲みに来た、曰く付きの女にイエスから声をかけます。当時の社会からするとこれも尋常ならぬこと。イエスは、水について話をして、女の心を開いていきます。そして五人の夫がいたという、女の心の内奥へと踏み込んでいきます。女はイエスを預言者だと認め、サマリヤとエルサレムのとの関係について、かねてからの疑問をぶつけます。
 
それはもしかすると、もうこれ以上自分の心の中にずかずかと踏み込んでほしくなかったから、などと見るのは、あまりに現代的な解釈となるでしょうか。ともかくこうして、話のテーマは礼拝というところに移ります。イエスをなにも女のプライバシーを暴き、晒そうとしたのではないでしょう。これでこそサマリアへ福音が届く契機となるでしょう。
 
礼拝するということは、サマリアだエルサレムだという、場所の問題ではない。イエスはそう告げます。礼拝する対象を知っているか、つまり神を体験しているかどうか、神と出会っているかどうか、が問われているのです。霊がそこに入らしているでしょうか。真理の内に礼拝をしているでしょうか。
 
この「真理」を、聖書協会共同訳は「真実」と訳し改めました。ところがこの訳は、かつての「信仰」を時折「真実」と訳しています。ですからこの箇所でも「霊と真実」とあるとき、信仰をも表すピスティスであるのか、と読者は勘違いをする可能性をつくってしまいました。ここではまさに真理、アレテイアで表現されています。訳語について思案のしどころです。
 
ヨハネのイエスは、自らを、道であり真理であり命である、と称しました。ピラトも最後に、真理とは何か、と問いを残していました。真理という語は、隠されていたものが顕わになるというイメージをもつ語です。イエスもそのような存在として現れ、ここまでもしるしを示してきました。礼拝には、このイエスにおいてなされるべきことをヨハネは告げます。
 
また、「今がその時である」とも言いました。この「今」は、いつのことでしょう。古のあの瞬間でしょうか。私は、私たちが礼拝している現代でもあってよいと思っています。私たちそれぞれがイエスと出会った「今」をも含みつつ、イエスを通して礼拝をしていくのだという受けとめ方をして然るべきではないかと考えるのです。
 
神も、この霊というあり方をしています。霊による礼拝は、神とつながる礼拝だとも言えます。真理による礼拝は、イエスを必ず経てのつながりだということを教えます。どうしても真理なるイエスが必要なのです。女は出会ったイエスをメシアだと証ししていきます。女は確かにイエスと出会ったのです。


Takapan
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