誰へ向けてのメッセージだろうか

チア・シード

ヨハネ3:16-21   


議員または指導者とされるニコデモは、地位も教養もありました。でも、新しく生まれるということについては、理解できませんでした。軽んじてはいけません。要するに、私たちもなお、どんなに聖書を知っているつもりであろうと、全く見えていないことがあるという教訓です。見えると言い張るところに罪がある、と書いたのは同じヨハネでした。
 
イエスが、ニコデモの率直な質問に対し、天上のことを説明していました。人の子は挙げられる、その故に、信じる者が永遠の命を得ることになる、というものでした。イエスの回答はこれで終わり、地の文として筆者ヨハネが次から説明を始める、というのが聖書協会共同訳の解釈でした。新共同訳は、この箇所もイエスの語ったことだ、としています。
 
しょせん、どちらもヨハネが書いたわけです。イエスの言葉であれ、地の文であれ、同じヨハネによるメッセージなのです。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。聖書の中の聖書、小聖書、などと呼ばれる句で、福音がこの中に凝縮されていると言われている箇所です。
 
この世にあっても、きっと人は救われる。その約束が感じられます。但し「信じる者」とあるところは見逃すわけにはゆきません。御子を信じる者は神の許へ招かれます。他方、信じない者はすでに裁かれている、と言います。闇を愛した者、悪い行いの中にある者、それはもうすでに裁かれている、というのですが、これはどう受け止めましょうか。
 
これを教義として命題化する必要はありません。教義にしようとするから、おかしくなるのです。むしろこのヨハネ共同体あるいはヨハネ教会を慰めるメッセージなのではないでしょう。裁きは確かだと慰めるのです。教会に敵する輩は、光たる教会の方には来ません。光の方に来るあなたがたこそ、真理を行い、永遠の命を得るのだ、と励ますのです。


Takapan
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