永遠の命の知らせの結末

チア・シード

ヨハネ3:16-21   


ニコデモを前にしての言葉。果たしてここはイエスの台詞の中であるのか、それとも著者ヨハネのト書きやアナウンスのようなものであるのか、議論は尽きず、決着がつきません。いま手許にあるところで見ると、新共同訳とフランシスコ会訳、田川訳はイエスの話とし、新改訳2017と岩波訳、それに聖書協会共同訳はヨハネのコメントとしています。
 
この解釈の違いにより、説き明かし方もまた変わってきます。イエスが行ったなら、子と父の関係を語る訣別の説教にぐんと近づくような気がします。こうした事情はともかくとして、この3:16は小聖書とも呼ばれ、新約聖書のエッセンスが見事に捉えられた一節であると言われます。誰かに伝道するのにまず知らせたい句として第一位ではないでしょうか。
 
それなのに、解釈が一定していないというのは不思議なものです。それでも、イエスが世に来たのは受け容れてもらうためだということは確実で、ニコデモが文面だけから判断する道化役を演ずる中で、新生のもたらす永遠の命が、イエスを受け容れる、つまり信頼を置く者に与えられることが説明されます。
 
そうすれば裁かれることがないと言います。ここで一切裁きというものがない、などとは言われていないことに注意します。このイエスが神の独り子である、という点を当のイエスが口にしてよいのかどうか、という点で私は疑わしく思うのですが、たぶん著者は両義的に示しているのではないか、とも感じます。どちらかに限定する必要はないのかもしれません。
 
人々は光よりも闇のほうを信頼した。とすれば裁きはすでにここでなされてしまっている。光を憎み、光の方へ来ないからです。私たちは、本当は根拠なしに、自らをそうではなく心理の行為者だと思い込んでいます。そうでしょうか。自分で自分のことをいつの間にか判断して、認めてしまっているのです。自分で自分を裁いて無罪としてしまいがちなのです。
 
どうしてもここを読むと、16節に目が吸い寄せられます。しかし私たちは、このニコデモの一件がもたらす結果が何であったのか、もう一度よく見て考えなくてはならないのではないでしょうか。そこには光と闇の分かれ道がありました。イエスの名を真理として知り、信じ、行うことが一層求められていることを見過ごさないでいたいと思うのです。


Takapan
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