カナの婚礼の深読み

チア・シード

ヨハネ2:1-11   


バプテスマのヨハネにスポットライトが当たってから、翌日、翌日、と弟子が集められます。そこは湖畔の漁という舞台ではなく、人が人を連れてくる仕組みでした。この有名なカナの婚礼は、どこからどうカウントするのか分かりませんが、三日目だと日付が入れられています。ヨハネ伝は日付に気を配っていると言われますので、何か謎めいたものを感じます。
 
ガリラヤのカナという所で婚礼があり、イエスは母と同行していました。珍しい形です。弟子となった者たちもいたといいます。母から、まず酒がなくなったことをイエスに告げました。後で世話役が「あなたは良いぶどう酒を今まで取って」いたと言いますから、すでに酒が十分振る舞われていたことが分かります。世話役はこのことを花婿に言いました。
 
つまり花婿がこの宴の主催者でもあるような言い方です。聖書で花婿という存在は、しばしばイエス・キリストを暗示します。婚礼はキリストの時が来て神の国の宴が開かれる場面に相応しく、この婚礼でイエスはゲストのようですが、何かしら思惑めいたものを感じざるをえません。これは「最初のしるし」であったとも記されています。
 
聖書はまた、はさみこみの構造をよくとります。最初と最後が対応する表見で括弧を重ねていくような構造をとるレトリックです。もしそれが意識されているなら、この最初のしるしは、最後のしるしへと私たちの目を向けます。それは十字架と三日目の復活を経た上での、キリストの再臨と神の国の実現となるでしょうか。
 
私たちはこの有名なカナの婚礼の場面から、水がぶどう酒に変わったという現象に、あまりに目を奪われ過ぎではないでしょうか。そして花婿が登場していることに無頓着ではなかったでしょうか。ヨハネ文書においては、水もぶどう酒も重要なアイテムです。霊と水と血によりキリストは証しされます。生きた水が流れることが信じる者の受ける霊の証しでした。
 
ぶどう酒は、血を飲むことで永遠の命を得る象徴となりえますから、ここには救いと永遠の命に関わる重要な素材が一度に現れていることになります。この最初のしるしで「その栄光を現された」とありますが、後にイエスは度々十字架と三日目の復活の出来事を、栄光を現すという言葉で告げ知らせました。ここにも対応関係が見られるように感じられます。
 
花婿は最後に良いものを取って置きました。ヨハネ文書は、信徒たちの試練の中に呼びかけていたはずです。特に黙示録になると悲壮感を示すほどに、信仰の忍耐を告げています。イエスは水と血を示して一度息絶えましたが、その後という「今まで」取って置いた良いものをも重ねてここから勇気と希望を与えられると受け止めるのは無駄な深読みでしょうか。
 
最初のしるしで栄光が現され、「弟子たちはイエスを信じた」とこの場面は結ばれます。これは最後の場面でも再現されるというメッセージを覚えます。そして今ここにいる私たちもまた、イエスの救いの業の数々をしるしとして受け容れるかどうかが問われています。但し、復活の栄光は、もうひとつカナでの出来事に関わってきていると思われます。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります