イエスと弟子たちとの関係

チア・シード

ヨハネ21:9-14   


ヨハネ21章については、どうしても後から別に加えられたというふうに考えざるをえません。何か取り繕う様子もなく、堂々と食い違うままにつないで記しているのが、杜撰なように見えないこともありません。その上で、イエスについて必要な記事、弟子たちの信仰敬称についての大切な内容がここに記録されていると理解することができると考えたい。
 
ここからも多くの黙想が、後の信徒たちに与えられました。ここから神と出会いを果たした人もたくさんいます。私たちは、文献の価値がどうなどととやかく文句を言うべきではありません。ペトロはここでは、魚が獲れたことで、主に会えたと確信できました。弟子たちもイエスの許に集まり、戻ってきました。
 
炭火、それはイエスが用意したのでしょうか。魚という素材は、人が持ち来るべきものでしょうが、火で調理するのは主です。いえ、その魚ですら主の言葉に人が従ったときに与えられたものに違いありません。魚というギリシア語の頭文字がキリストの称号を揃えていることから、十字架ではなく、魚こそがキリストの弟子たちのシンボルであった時代です。
 
何から何まで、善きものは神からもたらされたものと私たちも告白しましょう。この魚、153という実に具体的な数字で種類が教えられています。この数字は数学的に面白い数字で、いくつかの特徴的な説明があります。いかにも神秘的であるのですが、数字遊びのようにも思えてしまいます。それでもなんだかリアルな数字です。
 
しかしヨハネは、この数字をしっかりと書き留めました。網はその数にも負けず破れません。決して荷は重くなく、主の言葉に従う網は壊れません。そしてここから朝の食事が始まります。ただそこに来ればいい。招きを受けて、来さえすればいい。弟子たちは、あなたは誰であるか、と問いはしませんでした。「ある」の語が目立つ点、注目すべきです。
 
誰であるか。これは問う必要がありませんでした。主こそ、「ある」という語が付くに相応しい方なのです。パンと魚が分けられます。かつて多くの人々に分けた構図がデジャヴのように再現されます。まず弟子へ向けて、イエスの手から分けられます。ここに、ヨハネ教団の中で分かち合うべき神の恵みが明らかにされていると見ることも可能です。
 
まず信徒の内で、神の恵みが受け止められていきます。マタイだと、全世界へ出て行く幻で福音書が締め括られていました。ユダヤ主義のようなマタイも、実はさかんに世界へ、外へ福音を伝えることが目されているのです。ヨハネはグループ内に留まります。一人ひとりの弟子に光を当て、個性豊かに扱われます。教会の内部での結束を図るかのようです。


Takapan
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