3つの問いの展開

チア・シード

ヨハネ21:15-19   


ティベリアス湖畔で現れた復活のイエスは、その命ずるままに魚を捕った弟子たちと共に、パンと魚を食しました。五千人に分けた奇蹟とは異なり、魚の方が数がやたら多いのが今回です。この場面の続きとして、有名なペトロへの三度の問いがなされたというところを、ひとつ踏まえておきたいと思います。
 
食事は、イエスと共になされました。イエスと仲間になりました。この食事はイエスが与えました。イエスから受けることで、命を得ました。これはイエス自身を食することでもあり、命のパンを、そしてイクソスとしての魚であるイエスのすべてを取り入れたのでした。その時初めて、これからの問いが投げかけられました。
 
ペトロというあだ名でイエスは呼びませんでした。本名で、人格の中枢に呼びかけました。そしてイエスは唐突に問いました。この人たち以上に私を愛するか。解釈が可能です。他人がイエスを愛する以上にイエスを愛するのか。あるいは、人間を愛する以上にイエスを愛するのか。ここでは後者に理解します。
 
ペトロはこれに思わず肯定の返事をしました。ただし自分なりによく考えて言葉を選んでいました。後述します。そこへ主は追い打ちをかけ、小羊を飼え。良い返事を向けられたようにペトロは受け止めたことでしょう。そこへ主は再度問います。愛するのか、と。ペトロは不思議に思ったのではないでしょうか。あれ、自分の返事が聞こえなかったのかな。
 
それで同じ返事をしておきます。主はもうご存じでしょう、とまた付け加えておきます。イエスはまた羊のことを言いますが、ちょっと言葉を変えました。そうしてまた三度目に愛するかと尋ねます。認知症にでも陥ったかのように……いえ、愛するという語が変わりました。これまではアガパオーだったのが、今回はフィレオーです。
 
どちらも愛することについては違わないから、かつてこの違いにこだわって解釈議論を繰り返したのは徒労であったとでも言わんばかりに、近年は同じに片付けてしまう傾向があります。邦訳も、最新のものでも、同じ「愛する」ですし、注釈で触れることすらありません。これはなんだか淋しくありませんか。読者だって味わう権利があるのですから。
 
ペトロの気持ちになってみると、三度目にイエスが愛するの言葉を変えたことで、気づくのです。これはイエスがおかしくなってただ繰り返しているのではない、と。二度目のときには、聞こえていないのかな、と訝しく思い同じ返事をすればよいと思ったかもしれませんが、三度目の質問に変化があったとすると、そこに意味を見出さねばなりません。
 
思い返せば、最初いきなり、人間よりもイエスのほうを愛するのか、と飛んできました。二度目には単に愛するのかと言われました。三度目には、友人として愛してくれるだろうか、とぶつけられたのです。実はペトロ自身、ここまで自分が主を愛するというとき、フィレオーしか使っていませんでした。それしか使えませんでした。
 
神の愛か? 友の愛です。神の愛か? 友の愛です。じゃあやっぱり友の愛なんだね? こうした流れです。三度目に「も」は実はありません。三度目にイエスが自分に合わせて、やっぱり人間的な愛なんだろうね、ともちかけてきたのには、ペトロも悲しくなったと記されています。しかしこの悲しみの向こうに初めてイエスが、きっとソフトに、従えという言葉を向けたのでした。それでいいんだよ、地に足の着いた立場でおやりなさい、と。


Takapan
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