三度の問答の愛

チア・シード

ヨハネ21:15-19   


ここは解釈の力量が問われそうです。しかし、ここから自分なりに何かを聞こうとするだけで、この聖書理解を決定しようというつもりは私には全くありません。今日聞く声は何か、それで十分です。また、それを皆さまに語りかけることで、シェアできるものがあれば嬉しいし、皆さまが各自、同様に声を聞こう、と身を乗り出してくださることを願っています。
 
さて、復活のイエスがペトロに問います。ペトロが返答したのに、同じことをイエスが三度にわたり繰り返します。これはもちろん、三度主を知らぬと身を守るために逃げたペトロの行為を想起させるために違いありません。イエスは「わたしを愛するか」と三度尋ねます。「愛していることは主がご存じのはずです」とペトロは答えますが、この問答が都合三度繰り返されるわけです。
 
それはまるで、ペトロが十字架を前にしたイエスの背後で主を三度否んだその裏切りを、一つひとつ晴らしていくかのようでもありました。ペトロは胸を痛めます。「悲しい」とも訳されています。ところで、解釈というのは、この三度の問答にある語が、日本語訳では出されてないことが多いのですが、微妙に違う点なのです。
 
以前は、この違いを大きく取り上げて、イエスの問いかけの意味を深く読み取ろうとする理解が一般的であったように思えます。しかし近年、これはそれほど大袈裟に違いを取り上げる必要はないのではないか、という意見が強くなってきました。確かに、文学的に、同じことを別の語で表現するという場合があり、特にユダヤ文学では顕著です。その語の違いを穿った見方をして読みこなすのはむしろ本来の筆者の意図するところではないのではないか、と。
 
しかしヨハネによる福音書では、21章は後から付け加えられたとされており、素人目に見ても20章の末は一旦終了していることが明白です。ならば21章を付加するときに、わざわざ付加だと分かるようにせず、20章の末尾を消すことは難しくなかったはず。聖書編集はそれほどに、馬鹿正直に元来のものを守ろうとする気持ちも働く仕事だったようです。三度の問答の微妙な差異の中にも、古代の信徒たちは、何かしら意味を見出していたのではないでしょうか。
 
まずイエスの回答の締めくくりのほうを取り上げると、「わたしの羊を」というフレーズの次にあるのが、順に「飼え」「世話せよ」「飼え」と変化しています。言い換えに過ぎないのかもしれませんが、世話という説明を二度目に施した後、やっぱり強く推したい言葉としての羊を飼うイメージをペトロに焼き付けようとした、とも考えられます。
 
イエスがペトロに対して問うたのは、おまえはわたしを愛するか、という問いでした。この「愛する」が曲者です。三度の問いは順に「アガパオー」「アガパオー」「フィレオー」となっています。これに対するペトロの、自分がイエスを愛していることはご存じだ、というときの「愛する」はすべて「フィレオー」となっています。つまり「アガパオー?」「フィレオー」の問答が一度目と二度目、そして三度目の問答が「フィレオー?」「フィレオー」となります。これは友愛をイメージさせると考えられている言葉です。
 
アガペーとエロースの対比を示した19世紀末生まれのニーグレンという神学者以来、アガペーには神からの無条件の愛というイメージが強く塗り込まれています。必ずしも厳密にそのように聖書で使い分けられているわけではないこともその後研究者から指摘されていますが、概ねその動詞「アガパオー」も、神からの愛を表しているとしてそう間違いはないと思われます。パウロも、人が神を愛する愛にこれを用いることはなかったようです。
 
従来の訳に批判的で原典の表現を細かく注釈するさすがの岩波訳も、ここにはついにノーコメントで凌ぎました。安易な解釈を推奨しなかったのです。読者がそれぞれに受け止めるべきでよいでしょう。訳者が口出しすべきではない、と忍んだのかもしれません。私は、アガパオーだよね、と問うたのにペトロは慎重に言葉を選んで答えたものだから、再びアガパオーでいいかな、と問い、それでもペトロがフィレオーですと自分の意志を明確に述べたため、イエスも三度目に、じゃつまりフィレオーということでいいかな、と確認したら、ペトロはやっぱりフィレオーです、と答えた、そんなやりとりを想像しました。
 
この問答の直前に、復活したイエスを知りつつも、一度捨てた漁生活に戻った情けない弟子たちのところにイエスが現れ、共に食事をした様子が描かれています。食事は仲間であることの証しです。イエスは仲間であることで安心させた上で、「愛する」ことへの問いかけをしました。読者たる信徒への、筆者からのメッセージは、あなたたちは互いに愛し合いなさい、ということだったと思われます。神からの愛ほど粋がらずとよい。フィレオーでいいんだよ、と伝える場面となったのではないでしょうか。


Takapan
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