復活のイエスと知らないままに

チア・シード

ヨハネ21:1-8   


ヨハネによる福音書21章は、明らかに後付された別編集です。ほかにもこの福音書は、編集されいわば乱れた順序になっているという話ですが、たとえそうであっても内容を否定するのはもったいないことです。このエピソードによると、七人ほどの弟子たちが漁の仕事をしています。網を捨ててイエスに従った者がまた元の仕事に戻っているという寂しさです。
 
主イエスが刑死したためにがっかりした、というのならまだ分かります。しかし、その後復活の主に会って喜んだはずで、ご丁寧にここでは「その後」と記されています。イエスの業を受け継ぐような発想はここにはありません。あるいはとりあえず生計を立てるために働いたとでもいうのか、いずれにしても理由はよく分かりません。
 
かつてペトロがイエスと出会い、魚が捕れたときのデジャヴのような出来事です。ルカ5章の記事をヨハネが知っていて書いたのか、知らずして類似資料から記録するようになったのか、そんなことは私たちには分かりません。しかしここは復活の顕現です。ルカ伝のエマオ途上でもそうでしたが、ヨハネ伝のマリアといい、この弟子たちといい、復活のイエスにとんと気づかないのはどうしてなのでしょう。不思議です。
 
眼の前にイエスがいるのに、そのイエスの顔貌を知っているはずなのに、それがイエスだと分からないのです。いえ、私たちも、もしかすると日々これを経験しているのではないでしょうか。トルストイのあの靴屋のようにイエスだと分からずに接していることが、きっとあるのです。私たちも、実はそれがイエスだとは気づいていないのです。
 
言われるままに網を下ろして夥しい魚が捕れたのを見て、愛する弟子が主であることに気づきます。何かのきっかけで、突然主だと分かります。ペトロはまるで裸でいたかのようですが、フランシスコ会訳は作業服ないし仕事着なのだろうと理解し、思い切った訳にしています。岩波訳も、この点を注釈に入れています。
 
上着をまとうというよりは、たくし上げるような仕草ではなかったかと推測している訳なのです。筆の勢いのしたことでもあり、表現上も分かりづらいように思います。黙示録も含め、ヨハネのグループでは文書がさかんに書き加えられたり、他人の手が入っていたりするため、解釈のほうも難しくなっています
 
イエスの言葉は、「そうすればとれる」というものでした。このとき、まだ誰もそれがイエスであるとは気づいていません。まだそれがイエスだと分からない刻に、これは告げられていました。ここにいた弟子たちは、イエスの言葉だから従った、というわけではないのです。私たちの真面目な生き方は、きっとそのまま役立てられることでしょう。


Takapan
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