実はトマスだけに

チア・シード

ヨハネ20:24-29   


トマスについては謎が多く伝説も豊かです。インド伝道は壮大な物語となっていますし、現在でもインドのキリスト者にとり特別な人物です。ディディモという名が双子を意味するところから、イエスと双生児だという説まであります。ヨハネ伝ではトマスの言動へのイエスの反応がキーポイントになることが多く、好アシストを演じているようにも見えます。
 
その際トマスは、どうやら見た目の通りに自体を受け止める傾向があるように窺えます。象徴や隠れた意味などへの視点がなく、表向きの姿だけしか見て取れないのです。ここでトマス一人だけが、復活のイエスに会えず、弟子たちだけが復活のイエスを見たと喜んでいる中で、出会い損ねてぽつんと孤立しているところから物語が始まります。
 
弟子たちは、ユダヤ人を恐れて引きこもっていた、だからイエスに会えた。とすれば、トマスは決して恐れることなく引きこもっていなかったかもしれず、トマスがなにも不信仰だということを意味してはいないように感じられます。むしろぶるぶる震えていた他の弟子たちのような弱いところにイエスが現れた、とでも言うべきでしょうか。
 
トマスはそれが面白くありません。この目と手とで確認しなければ決して信じないぞ、と駄々をこねます。科学的認識の持ち主だなどと近年トマスが批評されますが、今の視点で決めつけるのはよくありません。科学的に信じられないのではなくて、一人主と会えなかったことが悔しいのであり、孤独を覚えたのではないでしょうか。
 
トマスは次の日曜日、仲間たちと共通体験をもちたいと思ったか、今度は一緒にいたといいます。すると前週と同じように、イエスが現れます。これはいまもイエスが、主日毎に集まる私たちのもとに現れて出会い体験をもたらすことを意味しているようにも受け取れます。ただの「こんにちは」が「平安あれ」のだということを改めてここで意識します。
 
イエスはトマスに直に語りかけます。トマスが先立って呟いていたことをみなご存じであり、それに悉く受け答えするのです。そして、信じる者となるようにメッセージを送ります。これは紛れもなく、いまの私たちへのエールでもあります。トマスのような、わが主わが神、と返すことができるでしょうか。神は私たちの神であると共に私の神でもあるのだ、と。
 
いえ、つねにすでに私の向き合うべき神、私の出会う主であるのではないでしょうか。イエス、主を信じるというのは見ることによる事柄ではない、と告げます。見ないでも出会うことができる方が幸いなのだ、と。だとすれば、先に主を見て喜んでいた弟子たちよりも、その機会を逸したトマスだけにこそ与えられた恵みがありうるということではないでしょうか。


Takapan
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