どこか無邪気な復活劇

チア・シード

ヨハネ20:19-23   


復活したイエスは、ヨハネ伝では、マグダラのマリアにしか、まだ姿を現していませんでした。ペトロともう一人の弟子が空の墓は見て知っていました。この二人はしかし、まだ十分理解していなかった、とヨハネは記しています。こうした弟子たちは皆、ユダヤ人たちの襲撃を恐れていたのか、さる家へ閉じこもっていました。
 
部屋に鍵をかけていたというのは、心にも鍵をかけていた、と言っているのに等しいと思われます。週の初めの日です。復活から一週間、弟子たちの心情はどう変化していたでしょうか。単なる悲しみとも違うでしょう。復活の預言を信じていた、というのも違うような気がします。半信半疑だった、という説明も、なんだか無責任です。
 
ヨハネの筆は、あっさりしています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」という程度です。イエスが声を発します。原語は2語。「平和、君たちに」だけです。もっと気軽に「こんにちは」の意味だったかもしれませんが、言葉の原義の意味が浮き上がってくる効果があったかもしれません。そしてイエスは、わざわざ自ら手と脇腹を見せます。
 
正に私は、あの十字架にかかったイエスなのだよ、という証明になります。これに対して弟子たちは、「主を見て喜んだ」のでした。恐れてはいません。ヨハネ伝での証言者たちは、他の福音書でのそれのように、霊かと怯えるような素振りを一切見せません。これは強調してよいことだと思います。ヨハネ伝の弟子たちは、けっこう素朴な役者です。
 
イエスは、言い残すことのないように、しかし簡潔に、伝えるべきことを言い放ちます。イエスが弟子たちを遣わすのだよ。聖霊を受けなさい。罪を赦しなさい。あなたがたが赦せば、その人の罪を神は赦してくださる、というのです。引いては、教会というものが赦すか赦さないか、それが神の赦し如何となるだろう、と聞こえませんか。
 
キリスト者は、なにか決定的に誤解していないか、省みる必要があります。「どうすれば人を赦せますか」などと悩んでいます。違います。教会がこの世で裁判官となったのでしょうか。教会はそもそも赦す立場にあるのでしょうか。そんなに偉いのでしょうか。教会もキリスト者も、自分が赦される存在だということを、すっかり忘れていないでしょうか。


Takapan
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