真ん中に立った

チア・シード

ヨハネ20:19-23   


イエスが十字架という残虐な仕方で処刑されました。遠くからそれを見るしかなかった殆どの弟子たちですが、再び集まっていたのは、他に寄る辺がなかったからでしょう。また、その時過越祭のためユダヤ人がエルサレムにぎっしり集まっていたせいもあるでしょう。イエスを殺したのはユダヤ人たちです。憎しみや狂気が弟子に及んでも不思議ではありません。
 
恐れるのは当然です。ここに、実はトマスがいなかったということが、次の展開のために意味をもつのですが、いまはそのことに言い及ぶことはせず、イエスが弟子たちに現れた点に着目します。家の戸に鍵を掛け、弟子たちはぶるぶる震えていました。それは、心にも鍵を掛け、閉ざしていたということをも表しているように思えてなりません。
 
イエスに従うと勢いよく口にし、事実危険な経験も確かに多かったはずなのであって、弟子たちは必ずしも臆病で逃げて行ったというあたりを見下すようなことがあってはなりません。よくぞここまでイエスに従って同行しえたものだとは言えても、イエスを捨てたなどと非難する資格は、安全なところから眺めている私たちには全くないのです。
 
よくやったとしか評せない弟子たちなのですが、その弟子たちが心を閉ざすしかなかった状況というものを想像してみましょう。その閉鎖空間の中へ、いつの間にか、いやだからこそと言うべきか、とにかく何の説明も理由も記すことなしに、イエスは「真ん中に」立っていました。部屋の真ん中に、とは書かれていません。端的に「真ん中に」なのです。
 
ぽかりと心の中は穴が空いていたことでしょう。弟子たちの心を満たすものは何もありませんでした。イエスに出会い、共に暮らした日々も、無限に教えられた教えの内容も、共に経験した幾多の出来事も、思い出とも呼べないほどに空しくなってしまっていました。その心の真ん中に、とも記されていません。とにかくただ「真ん中に」立っていたのです。
 
「平安あれ」のように言葉を発し、その手と脇腹の傷が弟子たちに見せられました。それが間違いなくイエスであることがここにあります。皆は喜びました。そしてこの後、世界へと派遣されて行くこと、神の霊、ひとに命を与える息を吹きかけられたこと、罪を赦す権威を、イエスとは違う形ではありましょうがね与えられたこと、これらが告げられます。
 
普通の説教でしたら、当然この辺りにシフトして語られることでしょう。しかし、そこに走らず、立ち止まることにします。「イエスが来て真ん中に立ち」、これらの言葉を弟子たちに与えたのです。「真ん中に」とは何のことか、ここで答えは決めません。一人ひとりが、考えましょう。そのとき、きっとイエスは真ん中に立ってくださいましょう。


Takapan
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