マグダラのマリア

チア・シード

ヨハネ20:1-18   


復活直後の墓に向かう女たちの数は、ルカ・マルコ・マタイの順に少なくなり、ヨハネではついにマグダラのマリア一人となります。安息日については聖書はほぼ沈黙し、日曜日の朝になります。マリアが何をしに墓に行ったのか、ヨハネは謎とします。
 
このマリア、墓の蓋である石が外されているのを見ただけで、主が墓から取り去られたと思いました。どうしてなのでしょう。マリアはペトロともう一人のイエスにべったりの弟子に報告します。弟子たちは墓に来てまた戻りますが、マリアはそこで泣いていました。悼む泣き声を挙げていたと思わせる語です。最初の騒ぎのときに泣いたのでなく、いまになって悲しくなったのでしょうか。
 
二人の弟子たちのほうは、まるで競争のように走りますが、この二人は、復活のイエスの前でペトロがライバル意識を示す関係にあり、この二人の墓の訪問を興味深く見ることができます。走るのはもう一人のほうが勝ちますが、ペトロは先に大胆にも墓の中に入ります。亜麻布の描写は、フランシスコ会訳の注を参照すると参考になります。もう一人も続いて入りますが、こちらは「見て、信じた」のでした。
 
この「信じた」は、信仰という意味のときに使う語ではなく、むしろこちらのほうが神的な感覚を伴うように見受けられます。だとすると、ふだん信仰と訳している語のほうが、むしろ信頼に近いニュアンスだと考えたほうがよさそうです。事実しばしばそれは信頼と訳したり信実のように捉えたりします。恣意的にある場合だけ信仰と訳すよりは、なんなら一語で「信」とするとすっきりすると思うのですが。
 
二人の弟子は、しかしこのとき理解していたのではないと記されています。信と知との比較が後世論じられますが、この時点で知には至っていないのです。そのペトロが、ペンテコステ時の出来事により、知を獲得しているように見えますので、私たちは、ここに信と知のひとつの基準のようなものを認めることができるかもしれません。
 
さて、弟子たちが戻り再び独りになったマリアは、墓の外で泣き叫んでおりました。しかし身を屈めて墓の中を診ると、二人の人物が見えました。驚いたことでしょうが、マリアはそうした態度を見せません。ヨハネはこれを天使と説明し、立ち位置まで詳しく伝えます。マリアはこの二人に対してはイエスの遺体を知らないかと尋ねはせず、園丁と勘違いしたもう一人のほうに遺体を持ち出したのかと尋ねます。この過程は省察を要します。
 
マリアは、泣いていた理由を二人に尋ねられ、主の体がどこにあるのか分からない旨応えます。マリアは何故だか分かりませんが振り向きます。誰かがいます。イエスなのですが、イエスとは知りません。マリアは園丁だと思いますが、あなたが持ち去ったのかと疑います。このときマリアは自分が「あの方を引き取ります」と言っています。
 
恐らくこれが、マリアが墓に単独で来た目的ではないかと想像します。マリアはイエスの体を自分のものにしたかったのだと仮定しましょう。それは遺体を取り出すという意味ではなく、イエスを独り占めしたかったのではないでしょうか。曰く付きの女であったとすると、女性仲間と一緒に行動はできません。自分の慕うイエスと二人きりになりたかった。だのに墓の蓋が開いていた。これは奪われた、と直感した。そして園丁が墓を開けてどうかしたのであれば、この自分が金を支払ってでも手に入れますと焦り伝えた……。
 
男は、つまりイエスは、「マリア」と名を呼びます。名を呼ばれたため、マリアは振り向きます。このときマリアの目が開かれたと思われます。マリアはヘブライ語で応えます。アラム語と思われていた日常語も分からなくなります。元の語で伝える必要をヨハネは感じたのでしょう。
 
しかしマリアが、ここで再び振り向いたというのは不自然です。すでに振り向いて、ずっと会話をしていたのですから。「振り向く」と訳した語は、向きを変えたという意味だと理解することができます。マリアは名を呼ばれて、身体的な向きを変えたのではなく、霊的な向きを変えたのです。人を避けるように行動し、イエスを独占しようという慕い方も激しかったが、呼ばれて応えるという愛し方に目覚めた、と見てはどうでしょう。
 
マリアはこのとき、イエスにすがりついていた様子が、次のイエスの言葉で分かります。かつては、触ってはいけない、のように訳されていたのが最近の役では新共同訳の「すがりつくのはよしなさい」のように変わってきました。マリアはすでにすがりついていたのです。しかし、イエスは父なる神のところに行っていないから、とそれを禁じます。逆に言えば、復活のイエスが父なる神と共にいる時、慰め主なる聖霊の時代になってからは、すがりついてよいのです。
 
それまでもイエスを慕うマグダラのマリアであったでしょうが、ヨハネの福音書は、マグダラのマリアについて説明を全くしていません。ルカだけが、七つの悪霊を追い出してもらったと説明していますが、他は沈黙です。後世大きな役割を担わせられるような伝説の女マグダラのマリアは実は謎なのです。このマリアは、イエスに名を呼ばれた向きを変えました。このときマリアは真の意味でイエスの出会ったのです。そして自分は主に会ったのだ、と証しをすることになります。ここに己れを重ねるクリスチャンは、少なくありません。


Takapan
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