イエスを証言するために

チア・シード

ヨハネ1:1-18   


福音書というジャンルが生まれたのは、先ずマルコ伝によってである、と考えられています。ぎこちないままに現れると、その後改善する動きが生じます。マタイ伝は、ユダヤの伝統との関係を問い、ルカ伝はより異邦人への理解を追究しました。そして少し系統の異なるグループとして、ヨハネの福音書では、劇的に活躍するイエスが人々に迫りました。
 
福音の初めを宣言もしないし、ユダヤの系図を示しもしません。異邦人社会への入口をつくることもしません。ここには、神秘的な概念の列挙があります。イエス・キリストという名は、すぐには現れません。イエスが登場するのは、洗礼者ヨハネが「自分の方へイエスが来られるのを見」(1:29)たのが最初です。イエス自身の言動は38節を待ちます。
 
しかし、イエスという名によってではなく、ヨハネ伝はすでに初めからイエスを指し示していました。「初めに言があった」と、創世記の冒頭のオマージュから始まり、ここからイエスにより新しい世界が創始されることを宣言したのです。細かい議論はさておき、このスタートから、イエスが何と表現され、何を含んでいるか並べてみましょう。
 
それはまず「言」です。言は「命」をもたらし、「光」でもあります。一旦洗礼者ヨハネに言及してそれが光ではないことを明らかにすると、改めて「光」が「言」であることを、「世」との関係で詳述します。さらにその「言」は「肉」となったといいます。そこには「栄光」が伴い、「恵みと真理」に満ちていたことを証言しています。
 
これは「イエス・キリストを通して現れた」のだと、イエスのことを持ち出してはいました。「神を見た者はいない」のですが、「父の懐にいる独り子である神」としてのイエスが、「神を示された」ことを告げます。イエスもまた神と呼ぶべきお方なのです。その存在を以て神を示すことができるのは、この「言」なるイエスのみです。
 
人間はどうでしょう。洗礼者ヨハネのように「証しする」ことはできるでしょう。イエスを「受け入れ」「その名を信じる」ことはできるでしょう。せいぜいのところ、そういうことです。そして人間は、神そのものを見ることはできないのですが、神の「栄光を見た」とは言うべきです。そして、私たちはイエスを証言するのです。


Takapan
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