壮大な世界の初めの言と命と光

チア・シード

ヨハネ1:1-5   


誰もがこの福音書の冒頭の箇所に魅力を覚え、そして惑います。これはいったい何のことか、と。分かっています。イエス・キリストは誰であるかを述べたいのです。でも、告げられている言葉の真意が受け取れません。受け取った気持ちになることができないのです。「初めに」は恐らく創世記の最初をリスペクトしてのことではあるでしょうけれども。
 
新約の思想を、創世の宣言になぞらえて、今もたらそうとしているのだ、と捉えるべきでしょう。初めに言があった、その「あった」という語がはっきりと使われていることに注目します。神の存在を掲げるかのようです。正にそうでしょう。しかし「神が」とはしていません。「言」です。この訳も、苦しいと言えば苦しいものです。
 
「ロゴス」は、そう訳すしかないのかもしれませんが、あまりにも多義にわたる語ですから、人類はこれを明確に簡潔に説明する術をいまだもっていないのだと思います。私はとりあえずイメージからして「理」の漢字で日本人が想像するものを大切にしたい、と思っています。言は神と共に、あるいは神と共にありました。言は神そのものでありました。
 
人の知る万物は、この言によって成り立っているといいます。言の内に命がありました。ヨハネ伝によく出てくる「ゾーエー」ですが、聖書で独特の意味をもたせているようです。壮大な視点で見た生命を思い浮かべると、いくらか接近できるかもしれません。でもあまりに壮大すぎて、人間の想像力は遠く及ばない気もします。
 
この命は、人の光であった、とも言います。「の」がまた曖昧です。人のための光であるのか、人を照らす光であるのか、そのような方向で見ておきたい気もしますが、そうした薄っぺらい理解で突っ走るのは、危険であるかもしれません。その光は、とも考えたいのですが、関係代名詞ではなく、改めて「光」という語を出してきているのです。
 
その光は、闇の中で輝いています。私たちの世界にある闇を思います。そして、私の中の闇を思います。しかし、その闇は、この光に勝つことはありません。言の内に成った命が、その光です。ヨハネ伝は結局、その命、すなわち永遠の命を伝え、与えようと祈って書かれているのです。この光は、すべての闇に勝るものであるのだ、と。


Takapan
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