恵みと真理

チア・シード

ヨハネ1:14-18   


恵みと真理について、ヨハネによる福音書はここで初めて言及します。ここまでは、言と光、そして神の子とされる側と世との対比がありました。名を信じる者には、恵みが与えられます。恵みの上にさらに恵みが、キリストを通して与えられるともいいます。キリストを通して、そこに大きな比重を置きたいと思います。
 
天からのすべての光は、十字架という窓を通って届く、ともいいますが、どんな知恵も感情も、つまり神についてのよきものはすべて、十字架と復活の言としてのキリストを通してのみ、及んでくるというわけなのです。ヨハネ伝は徹底して、キリストに耳目を集めさせます。このキリストから世を見る必要があることを、とことん伝えようとします。
 
それこそが、まさにヨハネにおける「福音」なのです。ヨハネ伝には「福音」という語は一度も登場しません。ヨハネ文書全体を見ても、黙示録に一度(14:6)出てくるほかは、全く用いられない言葉です。ならば、いっそこの「恵みと真理」と呼ぶものを、他の福音書で、あるいはパウロ書簡で「福音」と呼ぶものの代わりとしましょうか。
 
真理の概念は、ギリシア哲学で非常に重視され、人類の哲学の中心に常に輝き続けます。福音は確かに真理です。私は真理です、とヨハネ伝はこの後イエスに語らせることになります。ですから、そのときに並べられる「道・真理・命」が、すべてイエス自身のことだとして、私たちに迫り来るものと感じられるのですが、如何でしょうか。
 
恵みの概念については、上から与えられるところに特徴があります。人の内部から沸き起こるものではなく、まして人間自身が生み出すようなものではありません。上から、新しく与えられるものです。ひとが、新しく生まれ変わるということをも意味します。ひとの新たな人生が始まるのです。福音は、恵みと真理として、豊かに与えられます。
 
モーセの律法を超えたものが、神を直接見たことのない私たちにも及びます。モーセは、神と顔と顔を合わせて話をしたかもしれませんが、そうでない私たちにでも、恵みと真理はくるのです。それは、律法では全きものには成らなかった「救い」でもあります。「恵み」はヨハネ伝ではもう出てきませんが、それは「救い」でもあったのです。


Takapan
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