一つになることがどんなにか

チア・シード

ヨハネ17:20-26   


ヨハネ伝14章から、いわゆる告別の説教が始まります。イエスが地上で、弟子たちに言い残しておくべきことを、余すところなく告げるのです。この後、剣を鞘に納めよとペトロに言ったのと、十字架上で母と弟子一人に語りかけた他は、弟子に対してイエスがものを言うことはなくなります。イエスの遺言とでも呼ぶべきものではないかと思います。
 
その説教の、最後のところが、いま開かれています。そこには「一つになる」ということが強く響いています。「すべての人を一つにしてください」との祈りのようなイエスの言葉から、YMCAが始まりました。でもこの「すべての人」は、世界中のすべての人間という意味ではなかったと思われます。確かに「彼らも一つになるため」だと言います。
 
しかしながら、イエスを信じる人々のことを言っていることは明らかです。イエスは彼らの内にして、父なる神がイエスの内にいます。そのことによって、弟子たちも「完全に一つになる」ことができます。あるいは、一つにならなければなりません。イエスが神に遣わされたことは、まだ世に知れ渡っているわけではありませんでした。
 
だからいま、こうしてヨハネ伝が訴えています。これを聞く者、読む者が、つまり私たちが、イエスと神との交わりの中に入るならば、その人はもう「世」の存在ではありません。「世から出た者」(17:14)ではないのです。「真理」(17)なる神の言葉によって、あるいはイエス自身によって、「聖なる者」(19)とされるからです。
 
神はイエスを愛していますし、弟子たちをも愛しました。ならば、神がイエスに与えた栄光を、弟子たちにも見せることになるでしょう。そうして、イエスが神から遣わされたということを、十分知ることになるでしょう。「知る」というのは、知識だけではなく、人格的に出会い、こちら側も何かしら変えられる、ということを意味します。
 
これこそが、「御名を知らせ」た、ということです。それどころか、「これからも知らせ」るのです。神の愛はイエスが受けただけでなく、弟子たちの内にもあるのです。そうしてイエスもまた、弟子たちの内にいるようになります。互いに愛し合いなさい。イエスが繰り返すこの言葉の実現を示すことが、この神とイエスの証しとなるのです。


Takapan
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