イエスの祈り

チア・シード

ヨハネ17:20-26   


イエスが神と一つであるように、すべてのイエスを信じる人々をも一つにしてください。これはイエスの祈りなのでしょうか。それとも、出来事となる神の事実とでも言うべきものなのでしょうか。人は、これをもう決まっているものとして受け取るべきなのか、それとも人自ら背負う努力目標のようなものとすべきなのか、少しためらいを覚えます。
 
これを、神学だと何だのと言って議論する必要はありません。その人の生き方として実現していくものなのですから。その人において出来事となるはずのものであればよいのです。私たち一人ひとりによって、その事実は生まれます。イエスはさしあたり祈っているとしましょう。父と子は一つだから祈りなど必要ない、などとはいま考えません。
 
もし「彼ら」というのが、私のこと、私たちキリストを見上げる人々のことであるとしたら、神とキリストの支配の中にあることで、世がキリストのなんたるかを知ることへとつながるのです。これには励まされます。人は誰も、そこにいていいし、そこにいる意味というものがこのような形で与えられると、安心できます。
 
それどころか、イエスは私たちに、神の輝きを付しているというようなことを言います。果たしてそうでしょうか。人はちっとも一致できていません。啀み合い、見下し合い、遠ざけ合っています。しかもそれは、正にこの私からそうなのです。他人のせいにすることを皆がやっていれば、それだからこそ、一致ができない理由とされて然るべきです。
 
どうして世界の混乱の当事者であるという自覚がもてないのでしょう。世界の外から世界を眺め、支配しているつもりのような世界観をしていることに気づかないのでしょう。イエスを通して私たちは、その栄光を知ったのです。すでに神との関係の中に置かれているということを、いまさら知らないとでもいうのでしょうか。
 
神の名を体験したのでないなら、キリストの弟子ではありまん。キリストの名を以て呼ばれるような筋合いはありません。神の愛が私たちの内にないのであれば、イエスが共にいるはずなどありません。そんな偽りを真理だと思い込んでいれば、イエスの祈りを私たちが無にしていることになります。私は、あなたは、当事者ではありませんか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります