すべての人をひとつに

チア・シード

ヨハネ17:20-26   


1844年、ロンドンに集まった青年たちが祈り始めました。「すべての人を一つにしてください」の言葉を握り締めて、YMCAを始めました。若い人たちが道を踏み外さないように、との願いから活動が続けられ、輪が拡がっていきました。バスケットボールやバレーボールなどの競技が健全な娯楽として考案され、世界に光をもたらしました。
 
日本語の「青年」という言葉は、このYMCAの Young Men の部分の訳のために、小崎弘道が作った語です。一つにしてくださいという祈りは、いまは一つではないからです。人間はどうしても一つになれません。争いが絶えず、和解もできません。しかしイエスが父の内にいるのと同様に、というのは、現にそうであるから、と理解することができます。
 
どうか人間も、イエスの内にいることができるように。神の内にあることができるように。そうイエスが祈ります。そうすれば夜はイエスが父から遣わされたことを信じるようになるだろうというのです。世が信じるようになる、その「世」は何のことでしょう。イエスを知らない者であることは間違いありませんが、父を知らないというのです。
 
父との交わりが、イエスを通して正しくできていない関係の中にある者、つまりイエスを誤解している者もその「世」に含まれているのではないかと私は思うことがあります。イエスの弟子と自称するグループの中にそうしたものがあると見ているのではないだろうか、と。イエスの子としての働きを軽く見ているグループにヨハネは憤りを覚えたのでしょう。
 
父と子の関係を捉えていないグループへこれを伝える気はあるのでしょうか。それとも、この真理を仲間内だけのものとして隠す意志の方が強いのでしょうか。後者は秘密主義のようで今では怪しく思えるかもしれませんが、当時の社会状況からして、そんな公に伝道することなでできそうにないことを考慮に入れなければなりません。パウロは殺されかけました。
 
しかしイエスは、これまでも神の名を知らせたが、「これからも知らせます」と言っています。今後は助け主なる聖霊の営みに委ね、神の国の計画は止まることがないと宣言しています。生身の人間が告げ知らせるにはあまりに危険が多いので、内にこもるのもアリだけれど、結局は神の霊が必ず救われる者へ確実に真理を届けるというのだろうと思います。
 
父と子との間では、互いに内にいるという不思議な表現がとられています。こうなると形式論理では対応できません。人々もまたそこにいることができるようにとイエスは願っています。人々が知るように栄光を見せてください、とも。交わりを体験することで、一つになることが考えられているように見受けられます。これは理屈では説明できません。
 
ヨハネのグループは、強い結束を図る傾向にあります。イエスの目の前にいる人々に対してそうなのですが、「彼ら」つまり弟子たち「の言葉によってわたしを信じる人々のために」イエスは語り始めたのでした。ヨハネ文書を通じてイエスを知るようにと、後の時代の者、つまり私たちにそれを届けるという意志がそこに確かにあったのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります