イエスの時と永遠の命

チア・シード

ヨハネ17:1-5   


弟子たちに対して告別の説教を放つイエスが、目を天へ向けます。父よ、と呼びかけます。人としてのイエスが最も深い交わりの祈りへ没入したのです。父よ、時が来ました。この「時」の語は、カイロスではありません。神が世に介入してくる特異点のような時をカイロスは表しますが、それではなく、ホーラという語が使われています。
 
この語は本来、季節のような感覚を伝えます。日本語だと「時季」とでも言いましょうか。神の特別な時としてではなく、今やそういう時季に差しかかっている、というようなものなのでしょう。これを、ヨハネがよく使う「しるし」と併せて理解することもできるような気がします。神の業である証拠が、私たちの目の前に次々と現れてくるのです。
 
もちろん、イエスの十字架と復活という出来事を、広く含んで示しているということも確かでしょう。これを父に報告するような形で口にしていますが、実は弟子たちにも教えているのだ、とも捉えられると思います。ということは、読者すなわち私たちに向けて、決断を迫る如く、ここでは語られて遺されているのに違いありません。
 
もう一つここで注目すべきは、永遠の命の定義がなされていることです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」というのがそれです。なんと、当のイエスにこの台詞を言わせているのには驚きます。これが読者サービスでなくて、何でありましょうか。
 
知る、それは知識ではありません。明確な出会いの体験と、それによる人間の側の変化、否恐らくは死というものがその発端にあるのでしょう。知るとは交わること、人が変わることでもあります。変われば、新たに見えてくるものがあります。赤の他人だったイエスという方が、それまでとは別な姿で見えてきます。
 
変貌山でのイエスの栄光の姿にしても、イエスの方が変わったのではないのかもしれません。私が変えられて、同じイエスが輝く姿に見え始めた、という意味のように思えてきました。恋をすると、相手がそれまでとは違って見え始めます。相手は同じままなのに、私の心が変わったからです。私は神と出会って、造り変えられる経験をするのです。


Takapan
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