永遠の命は出会いの時

チア・シード

ヨハネ17:1-5   


時が来ました。イエスは父にそう言いました。祈ったとは書いてありませんが、これは祈りです。祈りの中で、父と密に連絡を取りつつ、全幅の信頼を寄せています。祈りはこうありたいと願います。子を通して父が栄光を現すことを求めており、それにより子なるキリストは、すべての人を支配する権能が与えられたと断言しています。
 
つまりそれは、永遠の命を与えるということでした。イエスはここで、永遠の命なるものについて、一つの定義を与えているように見えます。唯一のまことの神である父と、父が遣わしたイエス・キリストを知ることである、というのです。永らく生きるというイメージはここにはありません。私たちの数直線的な時間概念とは明らかに異なっています。
 
科学的な時間軸でしか時を見ることのできなくなった私たちは、あまつさえその時間に応じてのみ報酬を得るシステムで、時間を金銭に換算するようになりました。これではイエスの言葉をも、思い違いをしてしまいます。むしろここでは、カイロスという刻まれた特異な時が当たり前のように考えられていた文化に基づく世界観があるのでしょう。
 
この特別なチャンスである時が、直前で言われた「世に勝っている」ということなのでしょう。現代の時間観念はなんと貧しく細くなってしまったことか。イエス・キリストと出会うこと、そこにつねにすでに永遠があるのです。そしてそれは、「イエス・キリストを知る」という表現によって表されているものと考えられます。
 
しかし、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)という言葉、イエス本人が言ったとすれば、不自然ではないでしょうか。自分で自分のことを、キリストであるイエス、と表明しているのは、物語の場面としては奇妙に聞こえます。
 
ということは、これは筆者ヨハネが、読者である私たちに向けて突きつけている命題であるほかないと思われます。これがおまえの永遠の命だとのメッセージではないでしょうか。もちろん、「知る」というのは「体験する」ことであり、全人格を以て「出会う」ことなしにはありえない出来事です。イエスの祈りは、私の祈りとなっていかなければなりません。
 
「栄光」という言葉を巡ってイエスの発言は神秘さを増しますが、「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(17:5)と言うとき、創世の目的までをもダイナミックに含む形で、この時の栄光を意味づけているように感じます。歴史のすべてを貫く原理で、神との出会いのプランをここに示していると思うのです。


Takapan
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