真理の霊なる弁護者を待つ
チア・シード
ヨハネ16:5-15
いわゆる「告別の説教」は、十字架刑を覚悟したイエスが、最後にありったけの遺言を弟子たちに伝えようとする場面を描きます。弟子たちを「つまずかせないため」(16:1)に、これらのことを語ります。どこへ行くのか、と誰もいまや尋ねない、とイエスは言いますが、洗足の後、ユダが夜に抜けたとき、ペトロが実はそう尋ねていました(13:36)。
それは、ペトロの裏切りを記す場面でした。そしてその直後、ご自分のいる所についてイエスが話すと、トマスが、主がどこに行くのか分からない、と口に出しています(14:5)。トマスは、イエスの行き先への道を知りたかったのです。イエスは、私こそその道そのものだ、と答えましたが、ヨハネ伝のイエスの発言は、そもそも謎だらけです。
そしていつの間にか、イエスが一方的に語り続ける一幕となっています。これはまるで、舞台演劇です。どこへ行くのか尋ねる者がいないというのはどういうわけでしょうか。私たちはこの舞台に注目しているのですが、難解な演劇を前にして、戸惑います。但し、私たちはただの観客ではありません。実は私たちも、この舞台の中にいるはずなのです。
ともかくイエスは去って行きます。それは弟子たちのためだといいます。「その方」は、罪、義、裁きについて、世の捉え方がいかに誤っているかをはっきりさせるのだそうです。この一つひとつについて、イエスは説明を加えていますが、世はキリストを知らず、キリストの姿を弟子たちも、やがてまた見なくなってしまいます。
そしてこの世の支配者は裁かれてしまうのです。弟子たちが、ぽかんと口を開けてイエスの顔を見ている様子が頭に浮かびます。派遣される「弁護者」はまた、「真理の霊」でもあります。弟子たちは、あらゆる真理に導かれるでしょう。その方はイエスになり代わり、神からのメッセージを語り、主の日の到来について教えてくれることになっています。
イエスから託された栄光を以て、聖霊は弟子たちに及びます。父から子イエスへ、そして聖霊へと渡されてゆくバトンは、神の知と神の愛、そして出来事となる言葉です。決してこれだけでは、イエスのからのメッセージのすべてが理解できるようには思えないのですが、私たちも同じようにこの方を待つべきであることだけは、分かります。