パラクレートス

チア・シード

ヨハネ16:4-15


イエスは見えなくなるけれども、代わりが寄越される。それは弁護者と記されています。これはパラクレートスというギリシア語の訳です。ヨハネ伝独特で、深く考えたい語のひとつです。神は霊という形で今後助けてくださいます。私たちのそばにいつもいてくださいます。「傍らにいる方」という意味がそこにはこめられていると言われています。マタイの「インマヌエル」のスピリットと比較できるかもしれません。
 
もちろん、これは神学的には聖霊と呼ばれ、神格、つまり人格のようなものを神の形でもつお方です。神と言えば神であると理解されます。世がその罪を知るように、それをはっきりさせるように訪れることも明記されています。が、そのことと弁護ということとはどうつながるのでしょう。人は罪ある者であり、神はその悪を裁きます。罪あれど神の赦しを信頼し、その子イエスという形で神が現した救い主により、赦されるといいます。
 
人には罪がありますが、子を信じる者には永遠の命を与えるという言い方で、神との魂における交わりができるようになりました。逃れられない罪故に苦しむ人間がいますが、それはすでに赦免されており罰を受けることがないと弁護をするのが、この聖霊という神でした。揺るぎない救いの根拠をイエスに掲げる、頼もしい弁護者です。
 
私は、赦されそうにない罪を犯してしまった、少なくとも取り返しがつかないことをしてしまった。でも、それも赦免されているのだとそれは弁護します。イエスの死でそれはもう片が付いているというのです。揺るぎない救いの根拠を強固に示す、有能な弁護士として、聖霊が傍らにいてくださるのです。ただ、神との交わりの唯一の特異点であるイエスを神の子としないならば、この構図はすべて消え去ります。
 
しかしパラクレートスは同時にまた「助け主」と訳される可能性をもっています。悪しき者に押され、真理なる神を見失ってさまよいかけたとき、霊は人を導き、神の許に連れ戻します。助ける主人として、傍にいて守ってくれるのです。真理というのも、ヨハネ伝のキーワードの一つでした。イエスだけでなく、霊自らが真理として、そしてまた真理へと導く者としてはたらくのです。
 
この霊は、神の思いを適切に人に伝えます。理屈で説明しようとすると難しくなりますが、イエスは父と子との関係をここでももちだします。イエスが神であることをどうしてもヨハネは知らせたいかのようです。イエスを十字架で殺したことが、人として如何に間違っていたのか、ヨハネの強い念は、ここからさらに徹底的な糾弾となって展開していくことになります。
 
私たちの立場を弁護するためにロゴスを出していく、パラクレートス。私たちへ向けて神のロゴスを伝えもたらす、パラクレートス。聖霊は特定の姿に固定されることなく、いつも傍らにして、人を支え、導きます。ただそうはたらくためには、私たちが、イエスという焦点からわずかでも外れないように目と心を釘付けにしておく必要があります。神と人との間をつなぐ道は、イエス・キリストにしかないからです。


Takapan
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