聖書を出来事にする霊

チア・シード

ヨハネ16:12-15   


イエスのしたことをこの世の本に収めることは不可能だ、するくらいですから、この告別の説教でも当然言い仰せないものがあるでしょう。新共同訳はあなたがたが「理解できない」としていますが、聖書協会共同訳などは「堪えられない」と訳しています。それを受け容れるキャパシティがない、というふうに捉えましょうか。
 
人は、いつだって神の思いを含み抱えることなどできません。いつでもそのほんのわずかな部分だけを手に取り、眩しく見つめているばかりです。かといって、何も分からないということはありません。真理の霊なる方が来て、教えてくれるからです。そして真理の中へと私たちを連れて行ってくれます。
 
その教え方のあたりをヨハネはもったいぶって説きますが、要するに、父・子・霊というラインの中で、神からのメッセージがちゃんと伝わっていくということではないでしょうか。かつて主は、預言者を通してその思いを人に伝えてきました。モーセのように顔と顔をつきあわせて語ったという霊もあります。
 
主に愛されたダビデは、度々主に伺いを立てて戦いの指示を受けたし、また叱責も受けました。新約の時代、天使が語るという記事もありますが、さて、これから後、そのような神からの言葉を人がどのようにして与えられるというのでしょう。それが、真理の霊だというのです。真理の霊が働いて、私たちに必要なことを教えてくれるというのです。
 
同時に、このような福音書の成立が関係していると見ることもできます。すでにパウロの手紙に権威が与えられ、一定の信頼を得ていたと思われます。福音書も3つ著されていました。ヨハネ教団は他の福音書に不満な分、遅ればせながら自分たちの信仰のカノンを編集しまとめることをしています。これからは、口伝えでなく書かれたものが求められるでしょう。
 
書かれたものとして神の出来事は継承されていく。これを福音書の中では邦訳として「聖書」としています。「書かれたもの」です。書かれたものから神がどう語りかけるのか。ただの書だけでは不十分です。今もなおその理解を助ける真理の霊が働いています。真理の霊が語りかけることで、神の書かれた言葉が出来事となってゆくのです。


Takapan
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