言い足りない

チア・シード

ヨハネ16:12-15   


イエスが世にて弟子たちに語るという形で、ヨハネはできるだけ多くの教えをこのまとまりに記録しようとしています。もちろんマタイにしても、山上の説教で長いスペースをとって教えをまとめています。しかしそれは明らかに単発的な教えの寄せ集めです。系統的に綴った観はありません。しかしここは元来のヨハネ伝ができた後で挿入した3章であるように見受けられます。最初の告別の説教では、足りなかったのです。
 
マタイなどにおいて、イエスが譬えで多くを語り、真意はそこに含意するかのようにし、福音書記者は解釈をいくらか自由に任せるようにしています。イソップ物語のように、一つひとつ教訓や解説を施しはしませんでした。ヨハネこれが不満だったのではないでしょうか。謎は謎であるにしても、できるだけ解説を加えて、信徒たちが誤解を招かないようにしたかったのではないかという気がするのです。
 
異端や異論が現れ、信徒が教会を離れていきます。福音理解としておかしな方向に流れか進んでいる危機がありました。元のヨハネもそんな中で説明を施していたにしても、まだ足りない。まだ言わねばならないことが沢山ありました。けれども、いま一気に言ってしまうのも、弟子たちにとり荷が重いものです。新共同訳は「理解できない」としていますが他の訳では「耐えられない」となっています。いまの弟子たちでは、これを支え保つことができないというのです。
 
真理の霊、すなわち聖霊がなかったら、イエスの教えと理解を支えもつことができない。神の霊自らが語ってくるかどうかは分かりません。イエスを知らせ、イエスの心を覚らせるのが目的であるとすれば、信ずるに至る道筋が自分の中にできればよいのです。それはイエスを知らせます。また、父と子は一つですから、父なる神をも知らせます。
 
神の教えは、この福音書の字面に制限されるものではない、とヨハネは告げたいのかもしれません。同じく後からヨハネ伝に付加を施し完成したと見られる大きな箇所として、21章があるわけですが、その終わりでも、イエスのしたことはほかにもまだたくさんあるが、世界はその書を収めきれないだろうと告げて福音書を閉じることにしました。神の働きは終わりがなく、無限なのです。
 
神のなすことを、人の知で分かる程度に制限することはできません。黙示録で誡めているように、聖書に書き加えはすべきではありません。が、この第二のヨハネ伝著者は、ある意味で書き加えをしています。当時、カノンという意識はなかったのです。この書がやがてカノンとなり、他の可能性を認めない存在となっていくことは、さしあたり考えていなかったのです。
 
これらは歴史の中での奇異な出来事でした。「主の日」「主の時」は、一回きりの特異な時カイロスとして示されますが、聖書の制定もまた、特別な時の中での出来事でした。しかし、それを導いた聖霊はその時もいまも同じです。この聖霊が、まだ言い足りなかったヨハネの思いも伝えるために今も私たちにはたらきかけて、一人ひとりに相応しい形で神と出会わせてくれているのです。


Takapan
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