イエスが私たちを愛したように

チア・シード

ヨハネ15:12-17   


イエスが私たちを愛した。クリスチャンは当たり前のようにそう受け止めています。でもこれを言う福音書はヨハネだけです。後はおもにヨハネの第一の手紙。愛するという語は、悪い習慣や生き方を愛するという意味のほか、良い意味であっても、隣人を愛することが中心で、ほかは人が神を愛することや、手紙を書く人が愛する子よと呼びかけるくらいです。
 
但し、ローマ書だけは、神に愛されていることやキリストの愛という言葉が少し見られますので、パウロは後半生でこの実感をもったのかもしれません。また、これを受けてパウロの名による書簡やその系統のものに、ぽつんと、神が私たちを愛してくださることに触れる言葉が入り込んでいることがあります。
 
しかし、愛するとは、殆どの場合、父なる神が御子を愛していることと、私たちが互いに隣人を愛すべきだということに集約されています。これが、新約聖書全般に通じる思想です。この2つの愛は本来別々の次元の出来事です。そこへ、イエスと私たちとの間に愛の関係が橋渡しされるというのが、ヨハネ文書の際立つところとなっています。
 
「わたしがあなたがたを愛したように」の前半はこのように、聖書の中でも特殊なものでした。最後の「ように」はどうでしょう。普通の語ですが、何か言ったことが実現するという時によく用いられます。人だとそうはいきませんが、神の言は、そのまま現実のものとなります。聖書の言が私たちの目の前で新たな現実となることが期待されているようです。
 
つまり、いま私たちは聖書を通じて、「わたしがあなたがたを愛した」という言を受けました。ならば、それを読んだ私たちがこれにどう応えるかが問題です。「互いに愛し合いなさい」が私たちを通じて実現することが求められているのです。父なる神と子なるイエスとの間の愛。イエスから私たちへの愛。だからこそ、私たちが互いに愛する愛へと。
 
特にこの言としての、イエスから私たちへの愛は、最大の愛、命を棄てるという愛でした。それは主人と僕という関係では説明しづらい中に起こるものでした。イエスは私たちを「友」と呼び、そう扱います。ヨナタンが最愛の友ダビデにサウルの全てを知らせたように、イエスは友なる私たちに父なる神のことをすべて知らせてくれるというのです。
 
また、この友としての選びは、私たち人間の側が主導権を握るものではないと告げています。人間が自由に神を選んだのではなく、イエスの側からの選びです。その意味での予定説ならばとても分かりやすいと思います。神が決めたプラグラム通りに動く機械的な予定説でなく、人工知能が情況を含み新たに判断を決めていくほうに近いのでしょうか。
 
そして、その選びは、出て行くためのものだと言われています。選びとはここでは任命を意味します。任命されたからには、職務があります。出て行くことです。教会に人が来るのをじっと待つのではない、教会に来ることさえできない人のところへ出て行く。そうでなければ、イエスのように愛するということにはならないと強調しているのです。


Takapan
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