僕から友へ

チア・シード

ヨハネ15:12-17   


愛に留まることをヨハネは強調します。キリストにつながり続けていること、それが留まるということです。これは喜びの知らせです。だから、これこそわたしの命令である、とイエスは告げます。互いに愛し合うのだ、イエスもあなたがたを愛したではないか。このあたり、原文の語順がたたみかけるようにしている勢いを味わいたいものです。
 
イエスは弟子たちに対して、友と呼び、もはや僕とは呼ばないと宣言しました。ではこれまで、イエスは弟子たちのことを僕だと呼んできたのでしょうか。イザヤ書の中で、イスラエルの民に、あなたはわたしの僕だと告げる場面がありますが、13章でイエスはすでに、弟子たちの足を洗い、自ら弟子たちの僕となりきっていました。
 
すでに友どころか僕の身にまで降りていたのです。15章でいまさら、もうこれからは僕とは呼ばない、と言うのは事態にそぐわないように見えます。友のために命を棄てるというフレーズも、これから先の十字架の上で成し遂げられるものですから、この説教の時間的制約の下にあるのではないようです。
 
イエスが何をしているか弟子たちが知っているから友である、という論理も、実はまだ弟子たちはこの時点でイエスのことを理解している訳ではないから、いま言うのは相応しくない。どうやらヨハネによる福音書全体について言えることですが、時間的順序は悉く無視され、スーパースターとしてのイエスが動く舞台であり続けているようです。
 
しかし、弟子たちはまだ知っているのではなくとも、信頼することはできるかもしれません。どう考えているのかイエスの心を言い当てることはできなくても、友だから信頼するということはありうるでしょう。イエスが父なる神から受けた内容をすべて弟子たちに伝えたというのも、もちろんこの場面で成就していないが、無時間的な福音であればどうとでも読めます。
 
イエスは時間の枠に囚われずに、縦横に神とキリストと人間との関係を説き伝えます。実は私たちも、聖書を読むとき、無時間的に読んでいます。どの場面からもいきなり神の言葉を受け取って味わうことができるからです。つねに福音書の時間的順序に従って聖書を読むわけではないはずです。いまさら聖書にのみ、時間順に書けと要求する意味はありません。
 
また、人間が神を選ぶような愚かな試みも、ここで粉砕されています。主権は神に、務めはキリストにあります。選ばれたのだという自負は、ファリサイ派のエリート意識をもたらす場合がありますから、クリスチャンも気をつけなくてはなりません。神が選んでくださったという確信が悪いのではなく、そこから次に自分が主体となる時の罠に対してです。
 
私たちは立ち上がり、出て行きます。その先に、実が結ばれます。神がその実をもたらします。すべてのクリスチャンがそうするべきだなどとは申しませんが、この弟子たちは、結局そのように生きることとなりました。福音書の弟子たちはそれを任務とし、それを使命として受けたのです。イエスの友として相応しく愛し合う者たちでいたいものです。


Takapan
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