道・真理・命をつなぐ霊

チア・シード

ヨハネ14:5-17   


イエスこそが道。これからイエスがいなくなるような言い方をするのを聞いて、弟子たちは不安になりました。そこへ、これでこそ父なる神とつながり、また父を知る機会が与えられるのだとヨハネは告げます。イエスこそ、父なる神を体験する具体的な存在なのです。こうして父と子は何らかの意味で一つであるのだと説明しています。
 
やがてイエスは父のもとへ行きます。一なるものであるべく還るのです。さて、キリスト教とはそれだけのストーリーであったでしょうか。ヨハネは、栄光を受けるという形で、その十字架と復活を理解して示しました。イエスの名、それが父と一つになるというのですが、さらにそれが弟子たちへも及ぶという視点をここで掲げます。
 
かの栄光から半世紀余り、教団の支えとしてイエスの姿が描きこまれてきたわけですが、ヨハネのグループは、マタイやマタイの福音書に満足せず、またルカの記す弟子やパウロの働きよりも、仲間の一人ひとりにはたらく神の力を確信させることが必要だと感じたように見えます。具体的に話す弟子の数が多く目立つのです。
 
仲間の一人ひとりに働く神の力を確信させることが、教団にとり必要だったのかもしれません。私たち、という、読者からして等身大のキャラクターがここに登場するのです。願うことはイエスの名によって叶うという率直さ。それは何も御利益目的ではありません。むしろ私たちは、神の嘉することしか願わなくなるように変化するのです。
 
イエスの語る戒めを守るとき、そこへ一人ひとりを助ける者、あらゆる不利な証言から守ってくれる弁護者を神が遣わすと言います。イエスという姿は目に見えなくなりますが、この方は弟子たちから離れることがありません。もう永遠に、共にいてくださいます。永遠の命を得るというヨハネの強調する約束がここに成就するのでしょうか。
 
イエスは神とつながる道でした。また真理でした。真理とは隠れていたことが明らかになることです。そしてやがて聖霊なる方が真理の霊として来ると紹介したのでした。世は知らないが弟子たちヨハネの共同体は、この仲間の内にこそこの方がいて、誰もが知っているとするのです。こうして、自分たちには命が与えられていることを証言しているのです。


Takapan
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