今ここから立ち上がろう

チア・シード

ヨハネ14:25-31   


世の支配者は、イエスをどうすることもできません。神の思うことを行うことは、人に妨げられはしないのです。イエスと父なる神とは、特別な関係の中にありました。そしてこの力は、信じる弟子たちのところへももたらされることとなりました。イエスはこの後、今のように姿を表すことができなくなります。
 
それでも、聖霊という方が遣わされて、イエスを思い起こさせてくださることになります。逆に言えば、イエスを思うとき、それがすでに聖霊が助けに来ているということになるとも言えます。これはもう伝えられていたこと。イエスの言葉は、もうすでに告げられています。今私たちは聖書という形で、それを知っています。
 
知っているからには、もう手にしているということになります。殊に平和が与えられています。それは、この世の力ずくの平和ではありません。もちろん神の業は絶大な力で及び実現しますが、パックスロマーナは軍力のなせることであり、虐げと圧政で表向きの平和となっているばかりでした。
 
黙示録もそうですが、神の治める国の平和は、人の想像を超えています。怯える必要はないし、心騒がせることもありません。イエスはここから一旦去ることになります。見えなくなるけれども、また会えるといいます。これはまだ人の目には実現していないことです。でもだからこそ、信じるという場面が生じます。
 
信じるからには、まだ現実となっていないことになりますが、それだからまた結びつきも強いものだと考えられます。信じる力でつながりましょう。今イエスは弟子たちとことん言葉を交わす時間がもてませんが、永遠へと続く交わりの道がきっと築かれることでしょう。すべての道はローマならぬ、神の国へと通じるのです。
 
さあ立て、とイエスは命じます。立て、というのは、眠りから覚めよ、という意味をも含むような言葉だと受け取れます。従って、これは復活をも暗示すると言えます。立ち上がり行動を起こす。そうなると、私たちのすることはすべて、生命自体を貫くスタートの勢いをもたらすことになるでしょう。信じるならば、立ち上がることができるのです。


Takapan
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