排他的な愛

チア・シード

ヨハネ14:22-26   


愛せよというのが、イエスの新しい戒めであるとすると、その戒めの内にある者に対して、イエスは自らを現すのだ、と告げていることになります。啓示と呼ぶのは大袈裟であっても、分かる人には分かるという世界です。ヨハネの共同体が、イエスという神の子を軸に強い結束をはかりまとまっていたことを伝えているように理解することも可能です。
 
他の福音書では弟子は、ペトロとヤコブ、ヨハネといった中心人物のほかは、個性豊かに語られることはあまりありませんが、ヨハネの福音書では、様々な弟子が発言権をもっています。ここでも裏切らないほうのユダに発言させて、できるだけ多くの弟子を表舞台に立たせています。外へでなく、内へのアピールとしてはこの方法がよいように思われます。
 
つまり外へは、ごく小数の代表者を表に出したほうが効果的なアピールになるのに対して、内部的には、比較的詳細に人物が知られていますから、あれやこれやの人物を出しやすく、自分たちの組織への親近感をもたせたり、自分もその一員なのだという帰属感を増すように思われるということです。
 
イエスはこのヨハネ教団内部のシークレットであって、外部の者にはその秘密や秘儀は明らかにされないだろうという位置づけがなされているのではないか、とここでは考えてみます。ユダの質問は、その点を突いています。このグループは、イエスの教えに従い結束しています。愛の教えを中心にして、その愛においてひとつにまとまっている仲間なのである。
 
このグループの間にこそ、神はある。イエスも共にいる。このヨハネの教団の中にこそ、神がいる。福音書という形でこれを宣言することにより、教団内を強く一つにまとめようとしているかのように見えます。しかし世は違います。イエスを中心として愛を重んじるのではない世界は、ヨハネが記すイエスの教えに従うことはありません。
 
神を信じ、神の支配下にある者たちは、このグループに尽きる。そういう秘密組織的な言い方がこの福音書の神秘的な記述の仕方の中に感じられてなりません。ヨハネ教団は、排他的にエルサレム教会やパウロ派から離れた特性を主張しており、他から見れば独善的な考えに立ってひとつになっていたようにさえ思えないでしょうか。
 
だから、キリストの弟子と名のりながらも、ヨハネたちとは別のグループのことを批判し、それらを世と呼んでいるのではないかとすら思うことがあります。もちろんユダヤ人の排斥はあるでしょう。しかしそれはけっこうはっきりとユダヤ人と呼びます。ユダヤ人を世と呼ぶ様子はないようです。ならば世とはローマ市民なのか。それもどうか。
 
世を愛し、世にある者が滅びないようにという寛大さが、吠え猛る悪魔やローマ帝国のために祈られていて、万人救済のように言っているのだ、とは考えにくいのです。この場合の「世」が何を指しているのかは、簡単に決められないのではないでしょうか。まだ新約聖書が決定してはいません。パウロでいいのか。エルサレム教会が正しいのか。問いかけます。
 
彼らと交わっていないとまでは言いませんが、積極的な交わりをもつことのないヨハネ教団は、福音書もこのように、全然別のタイプのものを綴らなければ我慢ができませんでした。ただ、ともかくも同じイエスの弟子と名のる者たちですから、救いの手が差し伸べられているかもしれない、と寛大さを懐くことがあってもおかしくはないでしょう。
 
イエスの口に語らせてきたここまでの様々なヨハネ特有の教えは、ヨハネ的な救いのメッセージとなりました。ヨハネ的福音書に記録されることに成功しました。あとは、これを理解し信じる心が起こされることです。それをさせるものが、聖霊であり、これから先は聖霊がこの書を分からせてくれるとの予告まで、ここではしていたのでした。


Takapan
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